僕が最初に闘った相手は病気ではなく社会だった(前編)

こんばんは。本格的な記事は明日から書こう、と思っていましたが、お風呂に入りながらアイディアを考えているうちに書きたくなってしまったので、書きます笑

プロフィールにも書いている通り、僕は元小児白血病患者です。強烈な経験をしたせいか、比較的幼少の頃からの記憶がはっきりとあります(4歳ぐらいから)

田舎の、田んぼに囲まれたエリア、2世帯住宅の長男として生まれ、3つ下の弟と、近所には同い年の友達もたくさんいたので、遊び相手には事欠きませんでした。7月生まれなので、同級生の中では足が早く物分かりも良かった?ため、幼稚園年中の音楽会でセンターの大太鼓を任されたりしてました。

そんな平凡な日々の中、病魔は突然やってきました。年中の10月、何の自覚症状もなかったのですが、ほっぺたが腫れていることに母親が気づき、おたふくかぜの疑いで病院に連れて行かれました。しかし、近所の病院では分からず、市立病院に2週間入院しても分からず、県立病院に救急車で搬送されて、そのまま入院したのです。僕はことの重大さを理解せず、救急車に乗れたことではしゃいでいました笑

1回目の入院から寛解状態に入り退院するまでには10カ月かかり、退院した時には幼稚園年長の8月でした。抗がん剤(という言葉もまだ知りませんでしたが)の副作用でまるはげになっていたのですが、ひょうきんな性格だったので「俺はハゲ〜♪」等と言って人を笑わせていました。退院直後こそ足が遅くなっていて焦りましたが、すぐに回復し、髪も生え揃い、小学校では地区対抗や紅白対抗のリレー選手に選ばれていました。成績も顔も性格も良くて笑、好きな子からラブレターを貰うなど学生生活は順風満帆で、病気のことなんて忘れかけていた矢先、両親に真剣な顔で「だいじな話がある」と部屋に呼ばれたのです。そして「病気が再発した」と告げられました。小学3年生の9月でした。

最初は意味が分かりませんでした。僕は退院してからも月に1回、入院していた病院に定期検診に行っていたのですが、その意味を理解していなかったのです。「この前の検査で、たーがまた病気になってることが分かった」「え、、、?」5秒ぐらい絶句したかな。「じゃあまた10ヶ月入院!?」父がうなずきました。「いつから?」「3日後。来週の月曜日から」「ヤダよー!!!」僕は大泣きしました。今まで父の後ろで黙っていた母も、釣られて泣き出しました。「頑張ろう、たーくん!頑張ろうよ!」3人で抱き合いながら泣きました。弟は部屋の外から様子を伺ってた気がする笑

土曜日、日曜日は友達と遊ぶ約束をしていたので、何も伝えず思いっ切り遊んだ後、連絡帳をたくして月曜日から学校を休み、入院しました。入院がどういうものか、今度は分かっていたので、テンションは物凄く下がっていました。

僕が2度お世話になった県立病院は小児専門の大病院で、案内された病室には、1こ下、2こ下、5こ下の男の子が入院していました。皆ポケモンカードをやっているということで、少し嬉しかったのを覚えています。僕はポケモンカードの大ファンで、それは対戦相手がいないとできない遊びだったので。

入院中はクラスの皆と定期的に手紙のやりとりをしていました。クラスメイト全員が1通ずつ僕に手紙をくれて、僕がクラス全体に1通手紙を返すというやりとりです。何だかお得ですよね笑 当時、ポケモンの影響もあってオリジナルキャラをつくるのが流行っていたため、お互いに自分のオリジナルキャラを手紙に添えて文通していました。僕の代表キャラは「ピスタ」だったなって今でも覚えてます笑 同級生の手紙で、僕がいなくなった後のクラスの様子も知れました。僕の連絡帳を読んだ先生が突然泣き出して、クラスの皆が「先生どうしたの?」と心配したそうです。先生は「塩山さんが病気になってしまい入院したので、しばらく学校をお休みします」とクラスに伝えました。みんなびっくり。特に土日一緒に遊んだ友達は「昨日あんなに元気だったのに・・・」と特別びっくり。みんな家に帰って自分の親に伝えて、みなさんが僕の母に心配の連絡をくれて、そんな感じだったと理解しています。

よく分かっていなかったのですが、2回目の入院では1回目の時に受けた治療に加え、骨髄移植というものもしなければならないとのことでした。そのため、年が明けた辺りから、1回目には受けたことのない治療が始まり、ホウシャセンという治療を受けてしばらくすると身体が内側から燃えるような熱さに襲われ、ナースコールを連打しながら裸になってアイスノンを身体中に押し付けました。それからクリーンルームに入り、静かに骨髄移植が始まり、抗がん剤を超える酷い吐き気で薬が飲めなくなった僕は、鼻からチューブを入れてもらってベッドに横になっていました。喉の薬だけは口から飲まねばならずこれが大変でした。免疫力ゼロで、親とも接触が許されない期間がこのクリーンルーム時代でした。

先に移植した友達は、だいたい移植から100日ぐらいで皆退院していきました。僕もそうなりそうなペースで回復していたのですが、再び移植の拒絶反応が酷くなってしまい、結果1年近くかかりました。退院できたのは小学4年生の1月でした。

小学5年生になると担任の先生もクラスも変わってしまう! 僕は学校が好きで、その前に学校に戻りたかったので、心配する親に対して、早く学校に戻りたい戻りたいと主張していました。

一度、体育の授業を見に行った時、グラウンドの向こうからクラスメイトの男子が「たーくんだ!」とこちらに気づき、皆がこっちに走り出すや否や、頭のいい女子が「たーくん免疫力下がってるから近づいちゃダメだよ!」と止める、そんなシーンも記憶に残っています笑

結局3月から学校に戻りました。ドキドキしながら1年半ぶりに教室のドアを開けると、「パンッ!」両脇からクラッカーが鳴らされました!「たーくんおかえりなさい!!!」クラス皆がお楽しみ会を準備して待っていてくれたのです!めちゃくちゃ嬉しかったです。この時の記念写真は今でも実家のリビングに貼ってあります。

さあ、ここからがお楽しみの帰ってきた学校生活。この記事のタイトル的にもここからが本題っぽいですよね。学校への復帰すなわち社会復帰の闘いを書いていきます。時間の都合で前編後編に分けて書かせてください。会社員ゆえ、明日寝坊するわけにはいかないのです。ここまで読んでくれてありがとうございます! 後編も読んで貰えると嬉しいです!


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