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個々に死を強制する国という存在への恐怖

1945年の今日3月10日は東京大空襲だった。そして5月には母のいた横浜で大空襲があった。
一瞬にして何もなくなる経験をした子供だった母は、その後、ゴルバチョフの失脚にもベルリンの壁の崩壊にも、社会が動いていく様子に敏感だった。今のウクライナの状況を母が知ったらなんていうだろうか。母の悲痛な顔が目に浮かぶ。
母とほぼ同じ世代の大江健三郎は2005年8月16日付けの朝日新聞で、戦争の理不尽さを言及している。

「60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感のすぐ裏側には、私ら10歳の子供にもその前日までずっとあった、そしてそれを口に出していうことはできなかった、個々に死を強制する国という存在への恐怖が、なおこちらをじっと見ているという気持ちが残っていたのが思い出されます。人間として決して受忍できない苦しみを人間がこうむったこと。」

個々に死を強制する国という存在への恐怖がこちらをじっと見ている。。

彼はその頃、『沖縄ノート』の中での集団自決についての記述で、沖縄の集団自決はあくまでも自主的なものと主張する当時の日本軍守備隊長と遺族に名誉毀損の訴訟を起こされていたが、その裁判を通して、沖縄でどのように非人間的なことが「日本軍」によって行われたか、そしてそれがいかに読みかえられようとしているのかを示したいと述べていた。
戦争はどんな立場にも悲劇だ。

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