明日のことは明日のわたしに任せられるのか

 社会人になって、学生と一番の違いは、責任のありかただ。仕事をそれなりに続けていると、ある程度やりかたが分かってくる。それを継続するだけでなく、新しい仕事を任せられるようになる。

 わたしは、新しいことというのが、わりと苦手である。iPhoneのアップデートすら億劫だし、ええ、と思ったりする。

 仕事がわかる用になるのは楽しい。けれど失敗がこわすぎる。わたしは器用ではない。むしろ不器用だし、目の前のことしか考えられない。目の前のことしか出来ないから、その部分だけ賢明に取り組む。

 それが、「真面目」ととらえられると困る。べつに真面目な訳ではない。ただそれしかできないからやるだけなのだ。

 だから期待してもらうと困るのだ。助けてくれ。

 やるべき仕事が増えると、テンパるし、ミスが出る。それが嫌すぎる。助けてくれ。そのイヤイヤ期が嫌すぎる。自制と理性が育ち終え大人になってのイヤイヤ期は最悪すぎである。完全に牛引きの刑なのだ。

 明日のわたしに託す、という考えにとてもあこがれる。託すぜ! と寝れるならばよいのだが、もやもやしてしまうし、気分が晴れないまま、リフレッシュもならないまま明日をむかえてしまう。そういう日が続くと、明日のわたしも昨日のわたしも同じなのだと思う。明日のわたしが知らないわたしなら、全然今日の失敗なんて気にしないで済むのに、と思わずにいられない。だがそうだとして、明日のわたしに任せられるだろうか。

 アップデートが怖いのは、今までのものがなくなってしまいそうだからかもしれない。

 なにかを得るなら、その下位互換はもういらない。だが今のわたしを下位と認めたくないのだろう。きっとわたしは、生きるということにあまり向いていない。向いている人間のふりをするのばかりうまくて、人を欺いて生きている。そんな気持ちが罪悪感があふれる。明日というものに絶望するのは、今日のわたしを捨て去っているような気がするからだ。

 明日のわたしがわたしであると、毎日の進歩ができるひとになりたい。今日のわたしが、明日のわたし。

 毎日、ひとは自分自身に託している。少しずつ、出来ることを増やしていこうと思う。

 今回はここまで。

#エッセイ #しおの雑文庫

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