ハッピーエンドの天才
ハッピーエンドの天才
ハッピーエンドが好きだ。切ないオチやホラーのような、後味の悪いエンドも味だ。嫌いではない。
わたしは創作に置いては雑食、というか、何でも「好き」だと言ってしまう。芥川竜之介の「河童」も「歯車」も好きだし、川端康成の「屋上の金魚」も好きだ。でもクレヨンしんちゃんのような、パワフルでおばかなものも好きだ。最近だと「プロメア」を観た。あれは熱くて、元気になった。
ディズニーも好きだ。ジブリも好きだ。ギャグもホラーも、特撮もエログロも、そんなものはまったくない日常を丁寧に切り取ったような作品も。好きだ。
作品というのは余韻だ。何を書いたか、というところもあるが、何を残したか、というのもひとつの役割だと思う。
どんなエンドでも、それがある。
気分にもよるが、たいていは「良かったね」というやさしい気持ちでエンドロールを眺めたい。本を閉じたい。ハッピーエンドで物語を閉めれる人は、天才だと思う。
しかも最初から最後まで、ハッピーを望ませてハッピーに向かわせる、いわゆる「光の創作者」という部類の人間が、わたしはとてもうらやましい。
大学に入り、小説を書き始めた頃は、わたしは光の部類にいたと思う。というより、「おはなし」を書くことしか出来なかったのだ。
最初に書いたファンタジーは、何とか百枚に到達させて、教授に読んで貰った。もちろんハッピーエンド。やさしい話が書きたかった。アルビノの女の子と従者の男の子が、幸せになる話だ。よくもまあ、あれだけ稚拙な出来のものを、傷つけずに評価してくださったものだと今は思う。「面白かった」と言ってもらえたおかげで、わたしは何とか、まだ書いている。
現状、わたしの書いているものは必ずしもハッピーエンドとはいえない。商業として出させて頂いた「19歳のポルノグラフィ」だって、これから遠距離になるふたりだ。ハッピーになりきれない何かがそこにある。
どうして手放しでハッピーを望まないのだ。わたしは自分の手癖がもどかしくてならない。けれど、この癖を捨てるのが惜しい。
ハッピーエンド、というより、明るい話が書きたい。テンポのいいエンタメ。スピード感。読みやすさ。頁をめくりたくなるような感じ。エンタメはわくわくする。わくわくするけれど、現状わたしは遠ざけている。
元気がない。わくわくする元気が足りない。
もしかしてそれが原因なのか? そうかもしれない。
エンタメに寄せて書いたことがある。とにかく「エモい」を封印して書く。「キャラの行動で展開させる」。その二つの制約を自分に課し、短編を書いた。
感想としては、ものすごく辛かった。
辛かったというと語弊がある。難しかった。あれから学んだのは、わたしは描写に頼りすぎている、ということ。そして、キャラが動くということの難しさ。ご都合主義ではないか。無理がないか。そんなことでずっと歯ぎしりをして、足を止めそうになるのを振り切って、とにかく「展開」を優先させた。結果として、あれはいちおうハッピーエンド、というか、明るい未来へつなげることが出来た。そもそも、おとぎ話のモチーフをつかい現代版にしようというものだったし、冒険譚なので、ハッピーになるのだった。わたしの力量及ばずのところは、原作に助けられた。もともとの筋があったから、なんとか、逸れずに書くことができたのだ。辛かったが、楽しかった。いわゆる脳のランナーズハイが起きた。脳味噌も筋肉だということ、よく分かった。
ハッピーエンドが書けるひとは、直結してこんな展開、因果、が容易に思いつくのか、と数年越しに戦慄している。
書きながら気づいたが、ハッピーになるには体力がいる。落ちるのは簡単。そんなあまりにも分かり切ったことに、わたしは延々悩まされていた。
ハッピーエンドイズ体力。
もういい、わかった……筋トレをしよう。「ダンベル何キロ持てる?」観るしかないのでは?
あとハッピーエンドのサンプルをもっと集めよう。明るい話を集めよう。
ハッピーエンドの天才になりたい。その上で、「ハッピーではないなにか」に価値を見いだしたい。相対的に、わたしは見てしまう。シーソーだってずっと下にいては、わからない景色がある。もうひとりのわたしが、両方からいいも悪いも知って、そして書きたい。それだけなのだ。
でもわたし、カフカの「変身」も芥川の「蜘蛛の糸」ヘッセの「少年の日の思い出」も大好きなんだよな……。(くりかえし)
今回はここまで。
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