「あそこにベンツが停まっていますね」から始まるBL

あそベンBL

「失礼。煙草いいですか」
 顔色の悪い、よれたスーツを着た男から声をかけられた。ぼんやりと座っていた眼鏡の男は、少し慌ててあたりを見渡した。公園には子連れの親が数人いたが、距離は離れていた。
「ええ、どうぞ」
 身を縮めて、ベンチの隣を空ける。
 顔色の悪い男が首にかけているストラップが、同じ会社のものだった。
 見たことがない。階か部署か、異なるのだろう。
 男はどっかりと腰を下ろし、死にそうなため息をついて、煙草に火をつけた。
「……僕、高橋といいます」
 ずり下がる眼鏡をあげながら、高橋はにかんだ。猫背の男は驚いたように停止し、「高瀬、す」と煙草を咥えたまま軽く頭を揺り動かし、興味なさげに視線をそらした。
 高瀬は歯の隙間から煙を吐き出し、ゆっくり目を瞑った。背を反らせて伸ばしたかと思えば、すぐ脱力し、猫背になった。
 流れてくる煙のにおいは苦くて、少し目にしみる。名乗ってみたものの、どう話をしてみればいいかわからなかった。高橋は手に持った、すでに空の缶コーヒーを見つめる。
「煙草、増税しちゃいましたね」
 高瀬は気だるそうに顔を向ける。高橋は少し強張った笑顔を作った。
「まあ、そうですね」
「また増税するし」
「そうですね」
「……美味しいんですか?」
 煙に目を瞬かせ、高橋はまじまじと煙草を挟む彼の指先を見た。においは苦手だが、徐々に灰に変わっていく様子は、嫌いではなかった。
「まずいです。まずかったです。始めた頃は」
 そう言って煙草を咥え、深く吸って緩く息を吐いた。
「やめたほうがいいですよ」
 へら、と顔を歪め、涙袋が浮かんだ。端正な顔立ちというわけではないが、鼻筋が通り、下まつ毛が長い。
「あそこにベンツが停まっていますね」
 高瀬は遠くの車を指差した。フェンスの網の向こうに白い車体が見える。
「ベンツ、あれがベンツなんですか。初めて見た」
 高橋は目を細め、首を伸ばした。
「あのベンツは煙草を何十年か我慢すれば買えるらしいです。あんたにはそっちの方が向いてそうだ」
 そう言って煙を吐き出した。重たいため息のようにも見える。
「僕は、車はあまり興味がないです……。親のために、買っといてやりたいんですけどね」
 高橋は気弱に笑った。空の缶コーヒーを脇に置き、「でもベンツか、夢がありますね」と頬杖をついた。
「高い車って性能がいいんでしょうね。みんな欲しがるんだし……僕は、乗れたらそれでいいんですけど。とか言いながら、免許が無くて」
 頭を垂れて黒髪をかき乱した。
「高瀬さんはベンツ、欲しくないんですか?」
「俺は愛車があるので」
「車持ちですか! 羨ましい……」
「親の車ですよ」
 そう言って高瀬は笑った。
「帰りに飯でもどうです」
 高瀬は空の煙草の箱を握り潰し、笑いかけた。
「あ、ええ、ぜひ……」
 高橋はぱっと顔を明るくした。肘に缶が当たり、地面に転がったのを慌てて追いかけているうちに、高瀬は立ち上がっていた。
「じゃ、駐車場で……」
 高瀬は猫背気味に会釈をし、去って行った。
 仲良くなれそうでよかった。
 高橋は安堵のため息をついた。ああいったタイプの友人はまったくもっていない。仲良くしてみたかった。十年来のコンプレックスを彼で晴らすような、そんな後ろ暗さはあった。
 それとこれとは違うだろう、と首を振る。高瀬はどの階だろう、どの部署だろう、と気になって、仕事にならなかった。

「お待たせしました」
 駐車場で、高橋は慄いた。眩いハイビームを浴び、緑の閃光が網膜に飛び散る。
 逆光に輝く高瀬が笑んだ。
「どうぞ。乗ってくださいよ」
 車に疎い高橋でもわかる。
 黒く滑らかに照るフォルム。スマートながら威圧する図体。明らかに「高い」とわかるその車。
 彼の愛車は、リムジンのことだった。

#小説 #BL

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