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誰がいないのか

皆いなくなれと願ったのは何年前だったか。もう随分と長い間同じことを願っている。
そんなある日。
目覚めると私の他は誰も居なくなっていた。居なくなっているけれど、なんとなく誰かがいる“気配”はしている。だけど見えない。
やっと願いが叶ったと、これで嫌な目に遭うこともないと、清々しい気持ちになったのを覚えている。

Aはいつも人を見下した言い方をする。
今日もそんな物言いをされた。ならば自分ですればいいと言ったところ、できないと言う。
では、Aができないことをしている私を見下す理由は何だろう。本当はできるのにできないと嘯いているのだろうか。
Bは決まって終業前に資料作成等を言ってくる。期限はお決まりの“明日朝一”。Bは、その“明日朝一”と言う言葉をお題目のように唱えている。だけど翌日の昼になっても、その資料はまだBの机にある。
Cはやたらマウントを取りたがる。競うつもりもないので適当に相槌を打つが、聞いていて気分が良くなることはない。

家に帰れば休む間もなく家事を始める。そうしないと夕飯時に間に合わない。唯一の自分の時間は23時を過ぎてからの小一時間。そして明朝六時には起きなくてはならない。
そうやって毎日が過ぎてゆく。代わり映えしない毎日。唯一景色だけが移ろいゆく。
自分で選んだ道だろう?と言われれば確かにそうなのだが、だからといってこんな現実を夢みていた訳ではない。
だから、誰も居なくなった今はとても清々しい。
誰からも干渉されず、煩わされず、気を病むこともない。

全ては自由な私だけの時間

そうして数日過ごして気が付いた。初めは清々しい気分で過ごしていたのだけれど、次第に退屈になってくる。誰とも会話をしない、できないのが辛くなってくる。掛けた電話は呼び出し音は鳴るが誰も出ないし、メールも返信はこない。
辛うじてテレビは点くのだが、言葉が理解できない。一方的に垂れ流すだけだった。

おーい、誰かいませんか?人恋しくなる。誰かと直接会って話をしたい。会話をしたい。
おーい!
声は虚しく消えてゆく。人がいないか探しに出る。けれど全く出会わない。見かけない。
とうとう見慣れた公園まで歩いてきた。噴水前のベンチに座る。ふと人の気配がして振り返ったが、見えたのは遊具だけで、誰もいなかった。ふわりと懐かしい香りが漂っている。
誰もいないのに。
おーい!誰かいませんか!

その頃

「いったいどこへ行ってしまったのか」
あれから数日経つが、一向に所在はわからない。
捜索願いも出したし、電話もかけてみたが応答も折り返しの電話もない。メールもやはり反応はない。
今日もまた探しに出掛ける。見慣れた公園まで歩いてきたが、やはりいない。倒れ込むように噴水前のベンチに座る。ふと懐かしい香りが漂い、辺りを見回したが、見えるのは噴水と遊具だけだった。
いったいどこへ行ってしまったのだろう。忽然と姿を消してしまった。


私以外の皆が消えたのか。
それとも、私だけが消えたのか。

今いる世界は現実なのか。現実だとして一体誰がそれを証明できるのか。
「おーい!誰かいませんか?」
今日も虚しく声が響く。