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たぶん物語【剥がす】

ふと海がみたくなって、日の入り前の海辺に足を運んだ。太陽が水平線の彼方に沈んでゆく。少しずつ暮れゆく空を見ながら、砂浜に打ち寄せる潮騒の音色を聴いている。
私の頬を、穏やかな風が触れてゆく。それはどこか懐かしい感覚だった。

その海辺には犬を連れた老夫婦や、空を眺めている少年たち、夕暮れ時の風景を写真に残そうと、カメラを構えている人もいた。

皆それぞれ色んな目的があって、この海辺に来ているんだな。
そんな事を思いながら、暮れゆく空や海を眺めていた。
もちろん、私にも海辺に来た理由があった。

「黒以外の絵の具を混ぜたら、黒みたいになる」
それは子供の頃に聞いた言葉だった。
皆、こぞって混ぜていた。
「わぁ、本当だ」と、言っていた。

青と赤を混ぜると紫色に。
黄と青を混ぜれば緑色になる。
白と赤なら、桃色だ。
じゃあ、全部まぜれば?
「黒みたい!」


それは、その“黒みたいな色”は、今の私の心と同じだった。
色んな色を塗って、何度も何度も塗り重ねて。まだ乾かぬうちに上塗りして、そうして心に黒のような色をつくりあげた。
単色だけでは世の中は渡れない。好きな色なら喜んで塗るが、人生はそう上手くはゆかない。嫌な色を塗らなきゃならない時もある。
時折、雑に塗った色の先が尖って固まっていることもある。
塗って鎧のようになった体で世間を泳いでゆく。大きな海原を渡るために、好むと好まざるとにかかわらず。
だからこうして時折海辺に、海に来たくなる。打ち寄せる潮騒の音を聴きながら心に溜まった色を放ちにくる。放つ度に何だか心の角がとれるような感覚を覚える。

人はどこかでリセットが必要だ。
人それぞれ方法があるのだろうが、私の場合は海だった。

太陽が水平線の向こうに沈む。
空はいつしか藍と橙が混ざり合ったような色になっていた。

「そろそろ帰るか。」
そう独り言ちて、立ち上がろうと足元に視線を移した時、砂で丸く削られた小さな硝子の欠片が目についた。
私はそれを拾い上げて掌にのせた。
薄れてはいるが緑色をしていた。
砂などで洗われて傷ついて淡い色となったこの欠片も、初めはきっと大きな欠片で綺麗な緑をしていたに違いない。そして尖っていたのだろうな。

そう思いながら、丸くなった硝子の欠片をシャツのポケットに押し込んだ。

まだまだこの先、色んな色を塗り重ねて、そしてその度に潮騒を聴きに、海辺に足を運ぶことになるのだろうな。
不要な色を剥がし、尖った心を丸くするために。