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お話【通気工法】

しゃがみこんで庭の草取りをしていると、
「やあ、ご精がでますね。そしてまた今日は特に風が強いですね」
と背後から声を掛けられた。
風なんて吹いていたかと、声のする方に向き直ると、燕尾服姿の男が立っていた。手には山高帽を持っている。
燕尾服も今どき珍しいが、何よりもだ、その、いったいどうしたらそうなるんだろう。目線の高さより少し上に燕尾服の男の腹が見えるのだが…。

腹に穴があいている!

例えるならドーナツのような感じなのだが、別に血も出ていないし、当の本人は笑顔で立っているので苦しくは無いのだろうが、見ているこちらとしては、己の腹まで痛いと錯覚してしまいそうな出で立ちだった。
普段から余り驚いたり取り乱したりはしないのだが、今日は「ひっ」と声が出そうになった。それくらい驚いた。見てはいけないものを見ている気がしたが、努めて平静を装いながら、
「あの…その腹はいったいどうされたのですか」
と、聞いてみた。
穴から向こうの交差点が見える。ちょうど信号が赤に変わった。
「ああ、これですか」
そう言って燕尾服の男が自身の腹を指差した。が、穴の中に指が入っている。
「あの。指が入っていますが痛くないのですか」
「痛い、ですか。いいえちっとも。穴が開いてるだけですから。寧ろ気分がいいですよ。吸い込まれるような感じがします」
吸い込まれるとは一体どういう事だろうかと、燕尾服の男を見上げると、男はにっこり笑っている。その笑顔がまた怪しげで、僕は目をそらして再び腹の穴をみた。ちょうど信号が青に変わって車が行き交っているのが見えた。

「あなたは“風穴を開ける”っていう言葉はご存知ですか」
不意に聞かれた。しげしげと見ていた自分を不愉快だと思ったのかも知れない。少し恥ずかしく思えたが視線を外せない。穴を見たまま、「あ、はい。確か諺でしたかね」と答えた。穴が気になって仕方がない。
「ええ。体の中がどうにも詰まっているような気がして。最初は胃腸の調子がよくないのかと思っていたのですが、そんな感じでもなくて」
僕の手は既に草を取るのを止めている。男の話す事を穴を見たまま聞いている。
「ある日、詰まりの原因がわかったんですよ。何だったと思いますか」
僕はその問いかけに首を横に振り、視線を男の顔に向ける。相変わらず笑っている。暫く考えたが、わからないと言う風に肩を竦めると、
「それはね、体全体に広がる閉塞感だったんですよ」
と言った。
「はあ、閉塞感ですか。だから風穴を開けて…いや、でも、どこでそ…」
燕尾服の男が僕の話を遮り、
「いえね、穴を開けてもらった訳じゃないのですよ。そんな穴を開けてくれる医者はいません。腹のちょうどヘソの上あたりに、ある日赤い発疹ができましてね。ご覧の通りこんな体格でしょう?」
そう言って腕を伸ばして見せる。続けて、
「ベルトで締め付けられて出来たのかと思って、気にもかけていなかったんですがね、みるみるうちに広がって気づけば穴が開いていました。勿論、痛みなんて感じませんでしたよ」

これで普通に生活しているのが僕には理解できなかった。食べた物はどうなるのか、呼吸は苦しくないのだろうかと疑問に思う。
男は続ける。
「開いた当初は風が通りすぎて大変でしたよ。勢いよく吹き込んで風が抜ける時には、ヒューと鳴るのでね。笛みたいですよね。おまけにくすぐったい。音も穴も最初は嫌で服で隠していた時期もありましたが、穴は服まで吸い込もうとするので、観念して遂に服に穴を開けました。でも慣れるとさほど人目も気にならないし、何だか体全体から悪いものが出た感じがして軽くなって、お陰様で今ではすっかり閉塞感はなくなりました」
体の中の閉塞感を出すために体に穴が開いたというのだろうか…。まさかそんな。

男は燕尾服の内ポケットから徐ろに懐中時計を取り出し、
「おや。もうこんな時間。手を止めさせてしまって申し訳ない。ではまたどこかで」
軽く会釈して山高帽を被り背を向けて歩いていった。背中から信号が見えている。

何だったのかと暫く考えていたが、草取りをしていた事を思い出して、また手を動かし始めた。
ただ、頭からは先程の男の姿が離れなかった。

燕尾服の男を見てから数ヶ月経った。あれから僕は毎日仕事でクタクタになりながら帰るという生活を続けている。採用されたはずの僕の企画が全てやり直しとなり、周りからは憐れみの眼差しを向けられた。
大変だね、なんて言葉を掛けてくる同僚の口角はなぜか皆上がっている。
結局はそうなんだ。自分とは関係のない事なんてどこまでも他人事で、それは好機の眼差しを持って見られがちなんだ。

閉塞感。そんな言葉と共にあの燕尾服の男を思い出した。
打破できずに腹にモヤモヤが溜まっていく感じがする。何とかこの企画を通したいのに、アイデアが浮かばない。ああ息が詰まりそうだ。