身体性の渇望

自粛要請が出た頃から、次々に美術館や博物館がクローズされて行くのを目の当たりにして、僕は自分に向けて「おい、しばらくは脳内で身体性を再現するしかねーぞ。これかなりヤバいよな」って自問したことを覚えてます。

アートそのものが与えてくれる覚醒が、どれほど自分のエネルギーに置換されるかは人それぞれでしょう。ですから、この「ヤバい」は、どこまでも僕個人の感覚です。

ただ、僕は過去に幾多の「本物を目の前にする」という体験で出来ています。その説明はむずかしいです。朝ごはんに白米やお味噌汁を食べて出来ている「身体」。シャワーのお湯を浴びた時に気持ちええわぁ〜感じる「身体」。そうした実体の僕とは別に「いま生きているんだな + これまで生きて来たんだな」と、自分の存在を実感して来れたのは幾多のアートの本物との出会いでした。

全世界の数多くのミュージアムが封鎖されたあと、すごい数のコレクションの閲覧を解放しました。ルーブルもメトロポリタンも!おぉ!すげぇ!って思ってアクセスして、見たかった絵を探し出して高解像度で見たりしました。

でも、なにも埋まらないんですよね。ガラス越しでしかモナリザを見れなくなった、あの「自分にとっての身体性が得られない虚無感」と言うか。

たとえばダリの絵を10cmの距離から見た時の、そこにある宇宙とか。ミシャが描いた「スラブ叙事詩」の巨大さの圧倒とか。クリムトの「ユディト」の恍惚の表情に描き込まれた無数の色彩の重なりの印象派を吹き飛ばすような絵筆の動きとか。王羲之の実物を前にして数々の皇帝の朱印を全部消して見ようとした時に見えた筆致。エゴン・シーレのデッサンの紙に刻まれた鉛筆の筆致の物理的な深さ(えぐれてるし)とか。とかとか。

とにかく、あらゆるノイズを消し去って、その作品が生まれた瞬間に自分をどう連れて行くか。作家の気持ちになり作家の手の動きをなぞる。それが僕の鑑賞スタイルです。僕のUX思想の根っこです。でもそのイマジネーションは本物を前にしないと始まらない、そのことを今回よく分かりました。

さらに言えば、そうしたアートへの導き役としての「動線」。それを司る建築家たちから得る連続的な覚醒への埋め込まれた布線との対話。それは少人数の茶会での、門を潜ってから茶室に辿り着くまでの主人が埋めた物語にも似て。また月明かりの青い庭の奥に見える小さな障子窓の暖かさにも似て。そんな建築家が描いたであろうレッドカーペットを歩くという身体性。

もちろん、ロダン美術館の奥にある地獄の門の黒々しさと、振り返ると夕日に輝くアンヴァリッドの黄金の塔の対比に、痛みや生と死というものに想いを馳せざるを得ないみたいな、もっと大きな環境がもたらす想定していなかったけれども刻み込まれる身体性も思ってしまいます。

正直、僕がなにを求めているのか良く分からないです。でも確かなことは「オンスクリーンだけでは、まったく埋まらない」ってこと。全世界のテクノロジストにお願いしたい。家から一歩も出られない僕を救うソリューションを構想してくれ。

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