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冬野真司の自己紹介note

はじめまして、冬野真司(ふゆのしんじ)といいます。です。

このnoteにたどり着いてきてくれたのも何かのご縁。

インターネットってこんなふうに普通に生きていたら、絶対に出会わないような出会いがたくさんあることが面白いな、と思って毎日生きています。

僕は、今、ライティングの仕事をしたり、マーケティングやプロモーションのお手伝いをしたり、ときにはコンサル的なこともしたりといったことをしています。

とはいえ、それまでも人生は本当に平凡。

むしろ、平凡以下の毎日を送っていたのです・・・。

小さいときから社会不適合者


昔からなかなか自分の気持ちを他人に素直に伝えることができないタイプ。

そのため、小学生の頃は、いじめを受けた時期もありました。

そして、仲間はずれにされるのが怖いから、ムリに周りと話を合わせるものの、すぐにバレて友達ともギクシャクしっぱなし。

そんな自分に自己嫌悪を繰り返してばかりでした。

でも、ネットはリアル以上に世界を広げ、可能性を与えてくれました。

リアルでの人間関係を築くことを苦手だった僕ですが、インターネットを通じて出会った人やモノは、リアルでは絶対に知ることができないことをたくさん教えてくれたのです。

今、こうやって僕とあなたが出会えているのもネットを通じてですよね?

そして、今ではネットさえあれば、いつでもどこでも仕事ができるようになりました。

リアルの場では感じれなかった自由な場所があるということ、世間的には有名じゃなくても、幸せそうに生きている人たち。

インターネットを通してじゃないと知り得なかった世界です。

そして、ほんとうに少しずつすこーしずつですが、

「自分がこの人生で何をしたいのか?」

「何が好きで何が嫌いなのか?」

「どんな人生を送りたいのか?」

誰かが決めた答えではなく、自分がどうしたいのか?を考えて、自分で決められるようになりました。

ここまでくるのにだいぶ時間はかかりましたが。笑

でも、そんな僕はどうやって本当にやりたいことや好きなことを見つけることができたのか?

あくまで僕のケースですが、もし、これを読んでくれているあなたにとって役に立てれば、、、と思うので、書くことにしました。

個人的には、本当にやりたいことや好きなことって、なににも縛られない幼少期にヒントが隠されていたりするので、この物語も幼少期までさかのぼります。

幼少期から一人が好き


旅行といえばひとり旅!

というくらい一人行動が好きな僕ですが、幼少期の頃から、みんなで遊ぶ遊びは苦手でした。

なので、一人でよく虫を観察したり、ひたすらパズルとかをやったりしていましたね。

今でも人の行動を観察したり、仮説を立てて謎を解いたりするのは好きなので、幼少期の頃に好きだったものってなんとなく大人になっても変わらないのかな?って思います。

仲間はずれの経験、そして、人は孤独ということに気づく

ただ、一人行動が好きとはいえ、友達はいました。

でも、友達がいても、一人行動が好きな僕は周りと合わせるのがとても苦手。

そのため、いつも友達がなにかやろうとしてもノリが悪い小学生でした。

その結果、いつしか友達からハブられることに。

学校に行っても露骨に無視。

休んだ次の日には、なぜか昨日の給食の残飯を机に詰め込まれるといった謎のいじめを受けていました。

辛かったのは、修学旅行の宿でのグループ分けでしたね。

誰とも仲良くない僕は、「グループに分かれてください」と言われても、一緒にグループになれる友達は一人もいません。

ある程度グループのメンバーが決まったところに入らないといけないわけだけども、どこのグループからも歓迎されていない。笑

そんなわけでこの時から「群れて生きていくよりも一人で生きていく道を選ぼう」と考えていましたね。

中学時代も、新しく出会う人と仲良くなるなんてムリ!

で、僕が通っていた中学というのは小学校、もっといえば、幼稚園の頃からずっと同じ顔ぶれがそのまま進級していきます。

なので、小学生に友達ができなかった僕はそのまんま中学でも友達はいないまま。笑

ただ、小学生の頃とは違って、まあ話す相手もいたし、サッカー部に入っていたので、同じサッカー部のメンバーとはそれなりには話すようになっていました。

そして、サッカーがそこそこ上手かったため、地元の市や県の選抜メンバーとかに選ばれていたのですが、これの練習とか試合とかが苦痛・・・。

だって、知らないやつといきなり喋らないといけない。

そんなの僕にはとうていムリでした。

なので、練習や試合に行っても、誰とも喋りません、喋れません。

今から考えると、集団行動が苦手だったのに、なぜ、サッカーなんて団体競技をやっていたのか不思議です。

現状維持は退化への一歩目

とはいえ、中学まではサッカーも勉強もそこそこできたので、それほど苦労をした覚えもなく、テストで良い点を取ることができていました。

そして、迎えた高校受験。

この時、僕には3つの選択肢がありました。

一つはサッカー推薦の話が来ていたA高校への進学。

もう一つは勉強をもう少し頑張って、県内で最も偏差値が高いB高校へ進学する。

そして、もう一つは地元のC高校へ進学するという3つの道。

「たられば」は言いたくないですが、この時の進路選択次第ではその後の人生は大きく変わっていたのかなと思います。

まず一つ目のサッカー推薦はそもそも高校ではサッカーをするつもりがなかったので、このA高校へは進みませんでした。

そして、B高校はこれ以上、勉強を頑張りたくないという理由でB高校へは進まず、現状維持的な考えでC高校へ進学することにしたのです。

当時の僕にもっと上を目指す考えがあれば、AかBの高校に進んだんでしょうが、この時、現状維持は退化への第一歩ということには気づいていませんでした。

堕ちていく高校時代

現状維持的な考えで高校に進学したものだから、そりゃ、勉強もしないはクラブ活動もしないわで遊び惚ける毎日。

悪いことをやることに憧れる年頃だから、ちょっと悪さはするけど、根性がないからそこまで悪いことはしない。

というなんともビミョウな感じな高校生活を送っていました。

そんな高校生活を送っているもんだから、将来に対しての夢はなく、高校3年生になって進路を決める時まで

「親戚がやっている会社で働こう」

と思っていたくらいですから。

しかし、そんな僕の思いは叶わず、親からも親戚からもその進路に進むことは許されず、さあどうしたものか?

と思っていたのですが、

「大学に進学するお金は用意している」

という言葉をかけてもらったので、高校3年生の春から大学進学を目指すことにしました。

勉強ってこんなに難しかったっけ?

とはいえ、高校に入ってからまともに勉強なんてしてません。

数学なんてもはや算数レベルで止まっているくらいでしたし。

そのため、大学進学を目指すといっても、勉強がまったくわかりません。

ただ、一つの大学だけ推薦入試で小論文を書くだけの大学があって、そこに合格したため、そこで受験勉強は終わり。

(今から振り返ると、小学生の頃から作文は苦手ではなかったし、文章を書く仕事には向いていたのかもしれません)

すんなり、その大学に進学することを決め、あとはまた遊び呆ける高校生活でした。

夢中になれることを見つけた大学時代

そもそも大学に行こうと思った動機が

親戚の会社では働けない

親から大学に行っても良いよと言ってもらう

ならば、就職などせず、4年間遊べる大学に行こう!

だったので、大学に入っても、もちろん勉強なんてしません。

毎日のように遊び回りました。

和歌山というド田舎から大阪という都会に出てきた僕にとって、大阪は刺激的な場所でした。

中でも、ハマったのがクラブです。

高校時代まで、パンクロック・メロコア・スカコア・ミクスチャーロック・ハードコア・ラウドロック…etc

といった音楽を聞いていたのですが、そんな音楽が朝まで大音量で楽しめる場所があることを知り、毎週のようにミナミやキタのクラブに通っていました。

そして、クラブ通いするうちに自分でもDJをやりなくなって、DJセットを購入。

大阪では大学の友達と、地元の友達と和歌山でもクラブを貸し切って自分たちのDJイベントを開催するようになりました。

最盛期は毎週100人以上が遊びにきてくれるようなイベントになっていましたね。

この頃から、

「人はどうやったら盛り上がるのだろうか?」

「どうやったら集客できるのだろうか?」

というマーケッター的視点を持っていたのかもしれません。

平日は毎日バイトをして、週末はDJをするというスタイルでしたが、バイト代はほとんどレコードやCDに使っていた記憶があります。

(おそらく月に5〜10万円くらいは使っていたかと・・・)

ただ、自分の趣味に没頭できる毎日を過ごしていたのですが、当たり前のように大学生活も4年しかありません。

大学4年にもなると、周りはどんどん就職していく中で、僕だけとうとう就職先がないまま卒業を迎えることになりました。

当時は、「まだまだ働きたくないし、プータローでもよいか」と軽く考えたまま、社会に出ることになるのです。

パチスロで生計を立てる日々

大学を卒業したあと、就職先がなかった僕はとりあえずバイトをすることにしました。

ただ、そのバイトが面白くなく。。

「これからどうしようかな〜」

って思っていたときに、高校から就職していた友達(勤続5年目)が突然、

「会社を辞めて、パチプロとして食っていく」

と言い始めたのです。

当時、僕の周りにはパチプロが何人かいて、食っていけているどころか、普通に会社員するより多くのお金を稼げていることを知っていました。

なので、僕もそれに便乗する代わりにバイトをやめて、晴れてパチプロになったのです。

とはいえ、パチプロになるには元銭がもちろんいります。

いくら勝率が高い台が目の前にあっても、投資0円では打つことすらできませんから。

そして、当時の手持ちの金額はぜんぶ合わせても10万円もなかったと思います。

パチプロになったとはいえ、一日3万円負ければ、3日でまたバイト生活に戻らないといけません。

そんなパチプロ生活初日からすでにギリギリな状態の中、一番はじめに選んだ店や台は超慎重に選びました。

当時は、今と違って新台には必ず設定が入っていて、良い店だと全台設定5or6なんてこともザラ。

そこで最も新台に力を入れてくる店でここには必ず設定を入れてくるだろうという台で勝負することにします。

「今日、手持ちのお金すべて負けたらどうしよう・・・」

そんな不安を抱えながら、おそるおそるサンドに千円札をぶち込み続けること11回目。

ついに初当たりをひきます。

そして、その初当たりを皮切りに連チャンから一気に持ちコインで遊技できるようになり、それから深いハマりもなく高設定を思わしき挙動で終わってみれば、9万円ほどのプラス。

パチプロ初日は勝利でスタートすることができたのです。

それからパチプロ友達といわゆる「軍団」を形成し、メンバーでイベント狙いや高設定狙いをして毎日、スロットと向き合う毎日。

朝イチから並び、夜は22時の閉店まで打ち続け、ひどい時だと、そのまま朝まで並んで、また高設定を打つ。

という毎日を過ごしていました。

収入面では自分が稼働した日数によるのですが、コンスタントに毎月50万円以上は稼げていましたね。

でも、毎日、パチンコを打ち続ける中でふと思ったんです。

「このまま誰とも喋ることなく、毎日スロット台と向き合っていて、自分は成長できるんだろうか?」と。

身につくスキルといえば、台選びと目押し力だけ。

このままではロクな大人にはなれないんじゃないか?と思うようになり、パチプロを卒業することにしたのです。

パチプロから肉体労働現場へ

で、パチプロを卒業すると決めたものの、どこで働くかは決まっていません。

ただ、たまたま音楽つながりの先輩が鳶職をやっていたため、

「パチンコなんて毎日やってないで、ちゃんと働け」

といって、その先輩の弟が社長として経営している会社で鳶職として働くことになったのです。

当時の日給は確か1万円。

それでも毎日、仕事に行けばそれなりのお金になったし、雨の日は休みというところにも惹かれて、鳶職として働くことになります。

鳶職といっても、住宅やマンションの現場が多かったので、それほど高いところに上がるわけではありません。

なので、初心者のような僕でも鳶職として働くことができたのです。

(そもそも見習いのうちは手元といって、高いところではなく地上から指示されたモノを運ぶだけですしね)

ただ、たまたま行った高層マンションの現場でそれは起こるのです。

はじめて見た人の死

その日は天気もよく、いつもと変わらず仕事をしていたら、突然、現場監督からすべての工事をストップして、全員、下に降りるようにという号令がありました。

「何が起こったんだろう?」

そう思いながら、その現場にいたメンバー全員が集められました。

「今、●●さんが高所から落下して、ほぼ即死だった」

そう聞かされたのです。

●●さんは50歳をすぎた良いおっちゃんって感じの人でしたが、昔気質の人で、現場ではヘルメットと安全帯を着用するように言われていたのですが、

「そんなのなくても平気さ」

って感じで、いつもノーヘルで安全帯もつけずに高いところに登っていました。

なにが原因だったのかまでは分かりませんが、安全帯をつけていなかったため、高所から転落してしまったらしいのです。

そして、この時、ようやく

「人は、いつ死んでもおかしくないんだな」

そう思うようになりました。

そして、

「鳶職として仕事をしている中で死んだとして、それは本望なのか?」

と自分に問だたしたら、答えはそうではないことに気づきます。

だって、先輩からなんとなく誘われた仕事でしたからね。

その事件をきっかけに鳶職をやめることにしました。

憧れだった現場監督という仕事につく
その後、なんとなくやってみたかった現場監督という仕事に就きました。

というのも、高校時代に働きたかった親戚の会社でやることって現場監督的な仕事だったんですね。

とはいえ、高校は普通科、大学は流通学部卒という建築とはなんの関係もない僕。

そんな僕を拾ってくれて、未経験から現場監督に育ててくれる会社に就職することができたのです。

なにげにこの時が雇用保険とかついた初めての就職でした。

この時は、毎日、夜の2時とか3時まで現場で仕事をしていましたが、不思議と苦じゃなかったですね。

とりあえず現場に放り込まれ、自分の親ほど年齢が離れた職人さんにしごかれながら、必死で仕事に食らいついていくのに精一杯でしたから。

そして、入社して半年後にはもう一人で現場を任してもらえるくらいにはなりました。

ただ、入社して1年後にはそんな悲劇が待ち受けていることも知らずに・・・。

初めて就職した会社が1年で倒産!

その会社は、オーナー社長がいて、オーナー社長はお金を出すだけ。

実務と営業は専務が一人で行っていました。

でも、営業スタイルは基本的には紹介のみ。

家のリフォームや新築物件がメインだったので、リピートがそうあるわけでもなく、紹介と言ってもそんなにニーズがある人ばかりでもありません。

また、建築系って材料費や人件費がべらぼうにかかるので、ちょっと資金繰りが苦しくなれば、一気に倒産します。

ご多分にもれず、僕が働いていた会社も紹介が回らなくなって受注が少なくなってきた頃から、経費の使い方や発注日を翌月の支払いにできるようギリギリまで遅らせるようにといった指示が出るようになりました。

ただ、もうその頃には末期症状で遂には、社長から

「来月から給料出されへんから、お前はもう辞めて、他の会社に就職しろ」

と言われました。

ただ、僕としては未経験で雇ってくれてここまで働かせてくれた会社。

だから、少しでも恩返しがしたかったので、

「売上が回復するまで給料なくてもよいから、続けさせてください」

と言いました。

でも、社長は

「潰れた会社にいたとなったら、会社に貢献できへん人間やと思われんで。お前はまだ若いねんから、今のうちに辞めて他の会社に行け」

という言葉をもらいました。

当時は、「なんで?」という気持ちの方が強かったのですが、あれは社長なりの僕への優しさだったんだなと今となっては思います。

そして、その社長から

「いくら技術を身につけても、それを売ることができないなら、お金は入ってこない。だから、次にやるなら営業の仕事してみたら?」

という話をしてもらい、それまでは絶っっっっっ対にやりたくない仕事ランキングぶっちぎり1位の営業の仕事に就くことにしたのです。

これが営業なの?
営業の仕事って大きく分けて、

見込客を見つける

商談する

価値を感じてもらう

クロージング

というパートに分けることができると思いますが、当時の僕はマーケティングや集客なんて概念はまだありません。

そこで上司に言われるがまま、取りあえず話を聞いてくれる人を見つけるために飛び込み営業をすることにしたのです。

営業の一番つらいところって、自分の話を聞いてくれる見込客を探すところだと思います。

でも、この部分をキチンと指導できる上司に当たるか当たらないかで営業成績って大きく変わると思いますし、その後の人生にも大きく影響を及ぼしますよね。

ただ、僕は飛び込み以外の見込客開拓方法しか知らなかったので、とりあえず飛び込みを続けるしかありません。

ただ、共働きが増えて、昼間に人がいる家なんてほとんどなし。

いたとしても、当然のことながら、門前払い。

でも、それにもめげずに来る日も来る日も飛び込み営業を繰り返していました。

今、考えると、自分が愛着も持っていない商品をああやったよく売っていたな〜と思います。

そして、それが認められ、いつしか一つの営業所を任されるようになりました。

ただ、営業さんを指導しなくてはいけないのですが、僕が教えられることといえば、

「飛び込みをやれ」

ってことくらい。

そんな当時の僕から指導を受けていた営業さんには申し訳なく思います。

そんな時、どうやって営業さんがもっと楽にお客さんを集められるかな〜と思っていたときに出会ったのが神田昌典さんの『あなたの会社が90日で儲かる』という本。

そこに書いてあったコピーライティングという世界に強く惹かれたのです。

そして、本に書いてあるように見よう見まねでチラシを書いてみたところ、なんと問い合わせの電話が!

「このチラシさえ撒いていけば、飛び込み営業なんてせずに後は、問い合わせの電話がかかってくるのを待つだけ」

と興奮したことを覚えています。

チラシ作戦はそこそこ上手くいきました。

ただ、ここで大きな転機がまた訪れるのです。

地獄の入口=保険営業

その会社でまあまあの成績をおさめていた僕のもとに保険会社のスカウトマンがやってきたのです。

そして、そのスカウトマンが上手かったのが当時、あまり給料が上がらないことに悩んでいた僕に対して

「同じ営業するなら、年収1000万円プレイヤーを目指しませんか?」

というオファーをかけてきたこと。

和歌山県という田舎にいたら、年収1000万円稼ぐ人なんて出会ったことがありませんでした。

ただ、もしかしたら、自分も年収1000万円を稼ぐ可能性がある。

そう思い、保険営業にチャレンジすることにしたのです。

友達を売ってお金に変える
あなたも持っている保険営業のイメージ通り、まずは自分の友人・知人にアプローチしろという洗脳に近い教育を受けることになります。

その会社は外資系の会社だったのですが、いかに日本の保険会社が売っている保険商品がクソでそんな保険に入っている身近な人を助けてあげましょう。

みたいな教育を一ヶ月くらい受けるのです。

たしかに保険のことを勉強すると、日本の生命保険会社が主力として扱っている商品がいかにクソかが理解できました。

そして、

「自分の友達に保険の話をするのはイヤだな・・・」

そう思いながら、アポを取るのですが、案の定、保険の営業を始めたと言ったら、電話にすら出てくれません。笑

中には話を聞いてくれる人もいたのですが、ただ売りたいだけの自分はいて、とても情けない気持ちになりました。

お情けで買ってくれる人もいましたが、口論になる友達もいて、当時の交友関係は保険営業を始めたことでガラガラと音を立てて崩れていったのです。

で、保険の営業って売らないと最低賃金しか会社から支給されないので、この頃の月給は11万円からさらに保険とかなんだかんだ引かれて、手取りは8万円もなかったと思います。笑

マーケティングと出会う

そんな中、いつもどうやってお客さんを探そうか?と考えていた僕は、保険営業で成功するために必要なことをネットで探しまくります。

そして、一日10万円というなんとも高単価なコンサルを受けるため埼玉県まで行きました。

そこで教えてもらった集客法こそマーケティングを駆使することだったんですね。

今から考えると、ダイレクト出版の書籍で学べるような基礎的な内容でしたけども。笑

そこでマーケティングに出会い、その中でコピーライティングという世界があって、世の中にはコピーライターという文字を書くだけで稼ぐ人たちがいることを知るのです。

文章を書いて生きていくことを決意

「パソコン1台あれば、働く時間と場所を選ばすに仕事ができる」

という今から考えると、なんとも情弱狙いのコピーに引っかかったんだと思いますが、人生で初めてといっていいくらい自分が「これになろう!」と思った職業がWEBライターでした。

とりあえず、WEBライターのスキルを身につけるために必要な書籍や教材を買いあさり、学ぶだけではダメだなと思い、

・タイピングの練習をする
・ブログを更新し続ける
・良い文章を手書きで写経する

ということを毎日の日課として自分に課していました。

当時は、ブラインドタッチはおろか、人差し指でキーボードを打つのが精一杯という状態でしたから・・・。

また、それまで文章を書くという習慣がなかったから、文章を書くことが当たり前になれるよう一日3,000文字を書くことをノルマにしていました。

仕事が始まる1時間前にカフェによって、ブログの更新と手書きの写経を毎日かかさず行っていたのは懐かしい思い出です。

また、毎日のブログ更新はもちろん、当時、社内で何か連絡することがあった時は、対面や電話ではなく、すべてメールで伝えることを意識して訓練していましたね。

そのおかげか、タイピングスピードもe-typingっていうサイトで練習していたんだけど、E判定だったのがS判定を取れるようになり、ブログも1年とか更新し続ける頃には、1,000文字とかの文章なら15分くらいで書けるようになっていました。

「人間って努力すれば、ちゃんと結果が出るんだ」

と心から思えたのも、この頃ですね。

仕事を獲得できない毎日

ただ、ライティングについて勉強して、毎日ブログを更新して、手書きで写経をしたところで実践でライティングをしたことがなかった僕はライティングスキルをお金に変えることができていませんでした。

多くの駆け出しライターが陥るところだと思うのですが、僕も知識だけは増えるけど、ライティングの案件を取ることができない・・・。

そんな時期を過ごしていました。

そして、ライターの仕事獲得についてネットで調べていく中で、現役のライターなのに、ライティングの技術を教えるわけではなく、ライターが仕事を獲得する方法を教えている人と出会うことができたのです。

ライターとして初受注

その人のもとでライターとして仕事を獲得する方法を学び、実際に自分でも案件を獲得することができ、0→1を生み出すことに成功。

実績って本当に大事で、実績0の時は、高額な案件はおろか、クライアント候補に聞く耳も持ってもらえません。

クライアントの立場からすれば当たり前の話なんですけど、大事なマーケティングやセールスにかかわる部分の文章を見ず知らずのド素人に任せるわけにはいきません。

広告費を使って、集客をしているならなおさらです。

でも、実績は雪だるまみたいなもので、0から1を作れれば、その実績をもとに次の仕事を獲りやすくなりますし、その実績が積み重なっていくことで、受注できる金額も案件の量も増やしていくことができます。

なので、僕は運良くはじめの一歩はお金をいただいて仕事を請けることができましたけど、実績なくて仕事を獲得できないと悩んでいるなら、

「実績のために無料でやらしてください」

という提案をして、さっさと実績を作ってしまった方がライターとしての成長は早いと思います。

僕が書いたメールで借金させる人を続出

会社に勤めながら、副業としてWEBライターとしての活動をして、ライターの収入だけで月に20万円とかを稼げるようにはなっていました。

なので、

「もうこれは会社を辞めていいのでは?」

と、見切り発車で独立。

でも、高額の案件は単発ばかりで常に新規クライアントを見つけないといけない・・・。

という状況でした。

ただ、たまたま飲み会で知り合った社長さんがライターを探しているということで、その社長の会社に就職。

その会社では、プロダクトローンチをメインとしたマーケティング手法で一回のプロモーションで億を超えるような売上を叩き出せるライティングができるようになりました。

また、アフィリエイターを使ってリストを集めるだけでなく、インターネット広告を使ってリスト集めするなど、このときに

集客

教育

販売

というマーケティングの一通りの流れを経験したことは大きかったですね。

ただ、僕が書いた文章のせいで何百万円もの借金をしてまで講座に参加する人も少なくありませんでした。

お客さんが求めているのは、

「この講座に参加して、人生を変えたい」

という一点のみ。

ただ、講座に参加してくれた人全員が稼げるようになって、人生を変えれたわけではありません。

もちろん、まったく根拠のないノウハウを売っていたわけではないですが、やはり人生はやるかやらないかだけ。

講座に参加した人の中で教えられたノウハウをやり続けられるのが2~3割くらい。

あとの7~8割の人は、講座に参加しただけで満足してしまっているんですよね。

たしかにこの当時の僕のライティングは、

「取りあえずこの講座に参加すれば、人生を変えられる」

というようにある意味、購入ボタンを押すだけで読者が気持ち良くなるようなライティングスキルを使っていました。

(今は、そういうライティングは封印して、本当にその商品やサービスを求めている人がその後の人生を変えることができるような「ご縁」をつなぐライティングを使っています)

でも、そんな人たちが行動して稼げるようになるまでサポートするのが本来の姿だと思うのですが、サポート体制があまり良いとはいえず、そういう人たちを

「行動しないやつが悪い」

と切り捨ててしまうような風潮があったのです。

また、お金がないからお金を稼げるように講座に入ろうと考えている人にローンの案内や借金をさせてまで買わせることに次第に違和感を覚えるようになったのです。

で、この頃、僕自身、

「自分の使命とはなんなんだろうか?」

「僕はなんのために生まれて、なにをして生きるのか?」

ということを考えるようになりました。

そんなタイミングで、

・ミッション・ビジョン・バリュー(MVV)を持つことの大切

・「何をするか?」よりも「誰とやるか?」が大事

といったことを教えてくれる師匠に出会うことができ、僕としてはその会社を変えたかったから、社長に直談判して、

「今のようにお客さんよりも自分たちの売上だけを見る会社運営はやめましょう」

「もう一度、原点に立ち返り、僕たちはどんなミッションを持って会社を運営しているのか?を考え直そう」

と提案したのです。

ただ、社長をはじめ、他の経営メンバーの答えはNO。

そんなことよりも売上を伸ばすことを考えようというのが彼らの主張でした。

なので、僕はもう一緒には働けないな、と思いこの会社を辞めることにしたのです。

フリーランスとしてクライアントの「やりたいこと」を実現

そして、今ではフリーランスのWEBライター・マーケッター・プロモーター・コンサルタント・ディレクター的な立場でクライアントの集客や売上アップのお手伝いをしています。

(自分でももはや何屋さんかは分かりません笑)

今、一緒に仕事をする基準は、

「その人がどんな世界を実現させたいか?」

に主眼を置いています。

そして、なによりその人となら、一緒にやりたい!という「誰と」を重視した働き方なので、ストレスなく生きることができています。

一人ひとり生まれ持った才能があって、その才能を開花させて世の中のために貢献する生き方がその人にとっても社会にとっても幸せなことだと思うんですよね。

また、

「こんなことがしたい!」

「こうやって生きていきたい!」

そう思っているけれど、現実的にお金の問題で本当はやりたくないことをやって、本来の才能を発揮できていない人もたくさんいます。

なので、僕が現実面として集客や売上を立てるという役割を果たせたなら、一人ひとりが自分のやりたいことで生きる社会が実現するのではないかな?と思い、今の活動をしています。

なによりやっぱり書くということも好きだし、自分が考えたアイデアがピタリとハマった時の快感は何事にも代えがたいので、これからもライティングとマーケティングには携わっていくと思います。

ライティングこそ最強のスキル

今では、動画編集やデザインといったスキルが重宝されがちですが、動画にしたって面白い脚本がなければ、良い動画にはなりません。

デザインがいくらキレイでも、売れるコピーがなければ、デザインされたページからモノが売れることもありません。

また、僕が好きなマンガや映画だって、面白いシナリオがあるからこそ、人から愛されるヒット作品となっていますしね。

大統領のスピーチですら、その裏にはスピーチの原稿を書くライターがいるくらいです。

つまり、書く力=ライティングはいつの時代になっても、必要とされる最強のスキルだといえるでしょう。

そんなライティングの力を高める人がこれからの時代を作っていくんじゃないかと個人的には思っています。

でも、ライティングだけでは・・・

ただ、ライティングスキルだけを磨いても、集客ができたり、売上が上がったりすることはありません。

それには、絶対にマーケティングの力が必要になるからです。

書くだけで満足しているのは、ただの自己満でしかないからです。

書いたのなら、その価値を待っている人に届けてあげるマーケティング力が絶対に必要になる。

なので、僕はライティングを磨くと同時にやはりマーケティング力も身につけることをおすすめしています。

人生いつからでも自分のやりたいことにチャレンジできる

僕自身、30歳を過ぎてからWEBライターという仕事を始めて、今では自分が好きなときに好きな場所で好きな人と働くというライフスタイルを実現できています。

たしかにここまで来るまでにいろいろな困難はありました。

ただ、あの時、ライティングで生きていくを決めた自分の決断を褒めてあげたいなと思います。

おかげでそれまで知らなかった世界をたくさん見ることができたし、人としても大きく大きく成長できたからです。

なによりネットの世界には無限の可能性が広がっているということに気づくこともできましたし。

そんな僕のようにスキルもお金もコネもない状態でも自分が実現したいライフスタイルを叶えることができました。

だから、今、あなたがどんな状態であろうとも、絶対に自分の理想の人生を歩むことができる。

そう断言します。

ぜひ、このnoteがあなたの理想の人生となる一歩を踏み出す原動力になれればと思います。

最後に

ここまで読んでくれて本当にありがとうございました!!!

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