都会の喧騒はまるでオーケストラ

 先日、所用のために東京都心に出かけることがあった。年度末までに必ず終えないといけない事を放置したので、不要でも不急でもないと言い訳をしつつ、都心方面の電車に乗った。平日の昼過ぎもあって、ガラガラの車内で車窓を眺めながら、最寄り駅までの小さな旅を楽しんだ。

 最寄り駅に降り立って、目的地に向かってしばらく歩くと、都会の喧騒がオーケストラのように感じた。ビルの建設現場の槌音が力強いリズムを、大通りを行き交う車の走行音が主旋律を、公園で遊ぶ子供らの甲高い声が対旋律をそれぞれ奏でており、それらがまとめて押し寄せることで交響曲のようだ。これらの騒音と言われるかもしれない音には、仕事の納期に追われたり、休校に伴うストレス解消など、音を出さなければならない正当な理由がある。不要でも不急でもないし、それぞれに意味があることを改めて思い知らされた。

 都心で慌ただしく働いていた頃、都会の喧騒を恨めしく思っていた。うるさいな畜生めと、騒音に張り合うかのように苛立っていた。オーケストラのようだと感じられるようになったのは、郊外でのんびり働くようになったからかもしれない。当事者ではないからこと、都心で起きている物事をお気楽に捉えることができる事は否定できない。ある意味で、オシアワセな人だからかもしれない。

 都心から帰るとき、自宅の最寄り駅からの帰路の道端でツクシが生えていた。夕飯の食材を買うために寄ったスーパーには、春キャベツが陳列されていた。確実に季節は進んでいて、コロナウイルスの流行が拡大しつつある状況は止まりそうにない。これ以上の感染症の拡大は起きてほしくない、と思っていても時間は進んでいく。待ち遠しくて早く時が過ぎて欲しい時でも、逆にその日を避けたくて時が止まっていて欲しい時でも、時間は平等に進んでいく。時間が止まってほしいと強く願っているが、そうはならないのが悲しい。

 寝て起きたら、日はまた昇っている。こんちくしょう。

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