あんま略せてない略歴 その1

あまり書いたことがない気がするのと、たぶんnoteでは昔のことを引っぱり出すことが増えるので、半生をあらい出してみました。

生まれて~小学校時代

1989年5月15日、三重県生まれ。

久居市に2~3歳の頃まで住む。その後マイホームが建ち、幼稚園入園前に津市へ引っ越し。以降20歳まで津市在住。この街(というより山)がやたらと公園があり、インドアもアウトドアもそつなくこなす子ども時代をおくる。

小学1年の時、唐突に母に連れ出されてサッカー少年団に入団。小学6年まで毎週土曜日は午後から練習に駆り出されることになる。

小学2~3年のとき、ハイパーヨーヨーが流行る。自分もハマる。学校でも持ち込みが許されるようになる。

割と上達が早かった自分は、上級生に呼び出されてブレイン・ツイスターやアトミック・ファイヤーを披露する。天狗になる。

しかし3年の夏ごろ、同級生のハイパーヨーヨーが紛失し、1か月程度で持ち込み禁止に。天下は早くも去る。

『地元トップクラス』の枠を超えるべく、ハイパーヨーヨーが行っていた認定会を受けに行きたかったが、最寄りのおもちゃ屋さんがサッカー少年団のある毎週土曜日しか認定会をしておらず、この頃からサッカー少年団へのイヤイヤ期が始まる。

小学6年に上がったとき、なんとか親にお願いしサッカー少年団の練習を遅刻して行くことにして認定会に連れて行ってもらうも、すでに認定会(というかブーム)が終了して3年が経過しており、当然受けることはできなかった。コロコロからハイパーヨーヨーの情報がなくなったからおかしいとは思っていた。
悲しいことに、ハイパーヨーヨーの認定会に参加することはできなかったというこの出来事は、その後の人格形成に(良くも悪くも)大きな影響を与える。

その後サッカー少年団へのヘイトがピークに達し、卒団まで半年ほどになったあたりで辞める。別にサッカー少年団自体は何も悪くなかったのだが、以降高校に上がるまで勝手にサッカーへの苦手意識は続く。

そうしてポケモンカードで東海大会ベスト8に入ったり、MTG(マジック・ザ・ギャザリング)で大人たちに揉まれたり、インドアに移りつつも地元では「ヨーヨーが上手な子」ポジションを維持する。

中学校卒業まで

中学校では運動への興味が完全に薄れ、パソコン部に入る。当時はマイコン部というなかなか風流な名前だった。

上の世代がたまにバイクで運動場を走ったり、爆竹を授業中に鳴らしたり、後輩=僕らの世代に恐喝まがいなこともあったりして(同じ中学の生徒としては)比較的おとなしく育つ。

部活の影響もあり、このときには完全にインドア派に傾く。家ではカードゲーム、部活ではオンラインゲーム&ゲーム製作&ホームページ製作&動画漁りに夢中になる。

そんな学校に居ながらゲームをする生活の中、中学3年に上がる頃、ふと検索した「ヨーヨー」で開いたページが『GIOY』。鈴木裕之、仙波英将、山崎政和選手等のフリースタイルに衝撃を受け、自分が知らないうちに新しいヨーヨーが発売されていたことを知る。

すぐスーパーでギリギリ在庫が残っていた2004年ハイパーヨーヨーのステルスレイダーとフリーハンドを買い、部室に持ち込んで映像を見ながら練習する。自分が部長になったのもあり、部室では割と自由が利いた。

また、そのころラッキーなことに我が家にインターネットという名の文明が到来し、家でもオンラインゲームをしながらヨーヨーの動画を漁る日々に変わる。

調子に乗っていると、あまり部室に来ない顧問の先生に、がっつりヨーヨーを練習している現場を見つかる。死んだと思いつつも「見せてみい」→見せる→「すごいやんけ」のコンボで見事免罪。ありがとうY先生。

フリースタイルの動画を見た影響で、文化祭でヨーヨーを披露。今見ればズタボロであろう内容でも当時は割と好評で、さらにほかの催しや子ども会、地元の祭へと繋がっていく。

完全に受験勉強そっちのけでヨーヨーにはまっていってしまい、第一志望の高校に受かることができず、二次募集を受けることに。受験日がその頃3月に開催されていた全国大会(JN)に丸被りし、仲間内で自分一人だけ居残る屈辱を味わう。だからみんな勉強しろよ。

卒業の時、前述の通り上の世代が結構やんちゃだったので、ただおとなしく座って卒業式を終えただけなのに「あなたたちはおとなしい子たちで本当に良かった」と担任の先生が泣く。

美術の担当だったK先生から「ヨーヨー凄いんやってな」「十年続けたら絶対武器になるから」と背中を押してもらう。


その2に続きます。


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