第174話. ディスコン
1992年
軽スポーツ「ホンダビート」の量産が始まり、暫くして、工場のラインを見せてもらう機会があった。鈴鹿製作所に近いこの工場では、軽トラックアクティシリーズも生産している。ラインを見て歩きびっくりしたのは、何年か前より工場内は随分ときれいになり、しかも活気があったこと。
案内の工場長が言うには、「ビートをつくるようになってから、みんなが前向きになり、工場が明るくなりましてね。それに、会社案内のパンフレットにビートの写真を載せた途端、急に見学者が増えて、おまけに求人問い合わせがこのところ多くなりまして」とにこにこ顔。同行のLPL(機種開発責任者)も得意顔であった。
週一度の4輪企画室の定例会は、いつになく切迫した空気である。議題の中心は、前年春、鳴り物入りで売りだされた軽スポーツ「ホンダビート」の今後の生産をどうするかと言うもの。発売当初は受注が殺到し、一時は、バブル崩壊後の救世主になるかとも思われていた。
が、実態は、発売前からのお店の見込み発注やお客さんの何店かへの複数注文が重なり、受注の実態がまるで読めないまま、ひとあたり行き渡ったところで、ぴったりと売れ行きが止まったのだ。
議論はもっぱら、どうしたらもっと売れるか、どのぐらいの台数を売ればペイするのかなどと、いずれも何とかしたいとの意見なのだが、妙案に至らずの堂々巡り。そんな時、今まで黙っていたプリモ担当部長がやおら立ち上り、「一日も早く、生産を止めてください」と。会議に出席の全員が飛び上がった。
と言うのも、そもそもこの機種は、数年前の戦略会議で、国内営業を担当する本部長の緊急動議的な要求で開発に入った機種。時間も工数もない中、特急開発として、開発担当専務が直々に陣頭指揮をとったという曰く付きの代物であった。
彼の言い分は、「この車は、すでに役割を果たし、社内のイメージも元気も向上しました。この上さらに、この車で一儲けをしようと深追いして赤字を増やせば、ホンダもお店も体力を落とします」と、尤もな主張である。が、聞いている方からすると、「貴方の上司がどうしてもと言うので、周りが無理を押してものにしたのではないか。それなのに」と言いたくなる。
技術屋と言うのは、開発も生産も、本来、もう少し論理的な人たちなのだが、つい自分たちがつくったものに愛着をもち思い入れが強くなる。いろいろな人がいて、いろんな意見が出て、正しい判断が出来ると思った。
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