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戦争の歴史を語る赤レンガ:最北に残された旧海軍幕別送信所

(育英館大学の授業で、学生が書いた記事。担当:鈴木)

稚内にある、育英館大学で学ぶ学生たちが、知られざる稚内・宗谷を探した。

2022年8月、私は稚内市恵北にある、稚内赤れんが通信所へ見学に行った。この場所には、日本海軍とが通信所として利用した赤レンガの建物が、一部雪による損傷を受けつつ、戦争の記憶を留めるものとして、保存されている。

稚内赤れんが通信所とは

稚内赤れんが通信所とは、1904年に運用が開始された宗谷岬にある海軍の望橉を起源としており、北方水域における国防の監視、通信拠点として機能していた建物である。1930年からは、望橉を大岬に残し、内陸部のクサンルに建物を新設して、大湊海軍通信隊稚内文献隊とし、主に無線電話の送受を任務としたが、翌年からは幕別に無線送信所の機能を分化させたのち1937年には、稚内通信海軍隊幕別文献隊となり、終戦まで使用されることになった。
 戦後、稚内には1945年から1972年まで米軍代77師団が駐留していた。赤れんが通信所においても、1948年からGHQの指示により、海難情報伝達を取り扱う海岸局として指定され、同年から通信業務隊が駐留していた。また1986年からは「自衛隊名寄普通科連隊通信隊」の所属のまま無人管理となっていた。
その後2004年に稚内市が国より国有財産管理委託を受け、2006年には歴史的建造物の保存を目的として、稚内市が建物と土地を取得。2007年からは、市民や市内の企業、太陽財団をはじめとした市外の方々からたくさんの支援を受け、施設の修復作業を手掛けている。

赤れんが通信所の今

現在は太陽財団からの支援や、クラウドファンディングを利用して修復作業が進んでおり、右手にあるB棟の屋根の部分が補強されていた。

正面に見えるA棟は、屋根もまだ修復されず、屋内には植物が生い茂るなど、まだ修復には莫大な時間がかかりそうだ。

展望塔に登って、遠くの景色を眺めた。
当時は監視に使われていたと思われる。


今後も建物の修復を行なっていくようだが、片方の建物を完全に修復するのに数億円かかるとのこと。
今後、我々は完璧に修復された通信所を実際に目にすることができるのだろうか。



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