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忘れられた最北の海軍通信所:稚内赤レンガ通信所

(稚内北星学園大学の授業で、学生が書いた記事。)
北海道稚内市恵北。日本最北の空港稚内空港から5キロほど離れたこの集落の片隅に、赤レンガの建物が、ひっそりと建っている。日本海軍が使用していた稚内赤レンガ通信所(旧海軍大湊通信隊稚内分幕別送信所跡)である。国境の町稚内の歴史をものがたるこの建物は、雪で屋根などが崩落するなど、長く忘れられる存在であった。稚内に暮らす私達学生にとっても、決して身近な存在とは言えないこの場所は、いま再び注目を集めている。

2019年8月某日、我々学生はそこを訪れた。稚内に暮らす私達も、恵北地区を訪れることはそう多くはない。かつて国鉄天北線の恵北駅があったこの町だが、今は移住者に土地を無償で譲渡するという看板が出ているなど、過疎の気配が強く感じられる雰囲気だ。赤レンガ通信所の入り口は、稚内市増幌小中学校の近くにあり、普段は閉鎖されている。草が生い茂り、知らないで通りがかっても気づかないだろう。今回は恵北の町内会長で、この施設を管理する稚内市歴史・まち研究会のメンバーでもある、熊田要二さんに案内していただいた。

車一台分が通れる程度の砂利道を進んでいくと、開けた場所に三つのレンガ造りの建物が現れた。正面に右手に小さな倉庫、真ん中に少し大きめの建物、左手に大きく少し倒壊している建物が見えてくる。第一印象は壊れているというものと赤レンガということで普段の稚内の日常とはどこか異なる場所にいると感じられる場所であるということだ。


右の建物。「稚内赤レンガ通信所」の看板がかかっている。


真ん中の建物。現在補修工事が進んでいる。

左側の建物。屋根が大きく崩れている。

右手の倉庫は昭和4年の建物、左手と真ん中は昭和16年の建物で、50人ぐらい住んでいたと推定されている。戦後米軍に接収され、その際には、もともと倉庫として利用されていた建物に、発電機等設置していた。1972年に米軍が撤収した後、この場所は長らく忘れられていた。
戦前、幕別通信所は、主に宗谷海峡の国防に関する通信を行っていた。真珠湾攻撃における「ニイタカヤマノボレ」という通信や硫黄島で最後の通信を行っていた。そこまではわかっているが、当時海軍がこの施設で何をしていたのか、あまり公には語られなかったこともあり、この建物の存在はあまり注目されずに忘れられていた。

近年になって、稚内市が国の資産となっていたものを買い取り、2009年より歴史・まち研究会を中心に、地元の産業界、特に建設業の協力、民間財団の助成を得て、整備を行っている。
現在も、冬は重たい雪がのしかかり、年中を通して稚内の強い風にさらされている。風化が激しいく一時は倒壊の危機にもあったが倒れないよう努力されている。今後、どのように保存していくかが課題となっている。

現在行っている通信所を保存するための修繕をした後、どのように活用していきたいか、熊田さんにきいてみた。
修繕が全て終わった後、フットバス、カフェ、ホテル、講演会等イベント会場としての使用がアイデアとして出ている。建物の中に多くの人が出入りするような形にするには、かなり手を入れる必要があるが、建物の周辺を歩くフットパスを整備することは可能で、すでに準備が進んでいるようだった。ただ、市民を含めて、人々の関心を高めていく必要はある。

多くの人に関心を高める取り組みは行われている。昨年の通信所への来訪者はのべ500人、5月、10月の一般公開では、二日間の開催で200人くらい来訪者があり、稚内の主要な観光スポットの一つして、発展する見込みが十分あることがわかる。
現在、元倉庫であった右手にある建物には、日本初の実用ストーブ「カッヘル」を置かれていて、勉強会や今後の方針などをやり取りする場として使われているそうだ。9月1日からクラウドファンディングを開始する予定であり、一部建物の修繕費用を補うようだ。
2019年の今年は、12月8日、真珠湾攻撃が行われた日にあわせて、慰霊の灯籠を並べて明かりを灯すイベントも予定されている。

稚内市郊外に静かにたたずむこの稚内赤レンガ通信所(旧海軍大湊通信隊稚内分幕別送信所跡)は町の人々の協力により今も活躍することを静かに待っている。


取材した感想
稚内にも戦争の跡として施設が70年以上の時を経てもまだあるということ、これは多くの人に知ってもらい、当時ことについて思い出すまたは考え直すものとして将来に残していくべきだと感じた。今残さなければ記憶というのは風化されていき忘れさられやがて同じ歴史を辿ってしまうことのないように残すべきだと感じた。(板谷)

幕別送信所で起こった出来事を忘れることのないように、多くの人に教えていくことが大事であると思いました。稚内の人は幕別送信所のことについて知らないことが多く、学校の教員も興味がない。その事について衝撃を受けた。学校の教員は特に勉強していかなければならない、教えていかなければならない歴史だと思います。幕別送信所のことを学ぶ良い機会になりました。(松岡)



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