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樺太~北の島に生きた人々の暮らし~

(稚内北星学園大学の授業で、学生が書いた記事/タイトル画像:北緯50度の「国境」日本国境標石)

樺太は、北海道宗谷岬の北方約43kmに位置する、縦に細長い島です。19世紀初頭、間宮林蔵が、樺太が島であることを発見しました。現在はロシアが実効支配し、「サハリン」と呼んでいます。
 樺太は、その南半分が、日露戦争後のポーツマス条約により日本領となり、1945年(昭和20年)の終戦までに日本人が暮らしました。終戦時の人口はおおよそ40万人とされています。終戦後の混乱を生き延びた人たちは、稚内を含む北海道や本州各地に引き揚げることとなりました。
 稚内北星学園大学で学ぶ私たちは今回、樺太に生きた人々の約40年について、考えてみることにしました。昭和20年夏の「緊急疎開」の話は衝撃的でしたが、今回はそこではなく、樺太の社会についていろいろ調べてみました。宗谷海峡の向こう側にある日本の占領下の樺太では、約40年の間どのような暮らしをしていたのか。稚内市樺太資料館の展示や齋藤譲一学芸員のお話に学び、感じたことをまとめてみます。


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(稚内市樺太記念館の展示から)

終戦時の樺太について

首都 豊原市(ロシア名ユジノサハリンスク)
人口 約40万人
言語 日本語
通貨 日本円
現在 ロシア「サハリン」(実効支配)

〇漁業:豊富な漁場に恵まれ、多くの人が従事


樺太の沿岸部は世界でも屈指といわれる好漁場で、樺太が日本領になった当初は漁業が樺太の経済の基盤となりました。樺太の人口のうちで、漁業人口が最も多い割合をしめていました。捕れた海産物は主にニシン、サケ、マス、カニ、タラです。当時は膝まで海に入ったら毛蟹がすぐにとれるくらい水産資源が豊富であったといわれています。現在もサハリンの市場にいけばカニは売られていて、川にはサケ、マスが豊富に存在していると、樺太資料館の映像で紹介されていました。
ニシン漁が盛んな樺太西海岸では、数の子と白子を抜いたあと、開きにして煮て油を抽出していました。最終的な搾りカスは、食料ではなく、畑の肥料として、活用していました。数の子は塩漬けにしていました。畑の肥料も塩漬けにした数の子も、島内だけでなく、内地に向けて送られて、活用されていました。

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(上:塩サケの製造 下:開きタラの製造 稚内市樺太資料館の展示から)


ニシン漁が盛んだったことやサケ、マス、カニ、タラなどの海産物が豊富に獲れたことなど、以前の稚内の漁業最盛期と似ていますね。



○鉱業:島内の火力発電を支えた豊富な石炭資源


 山岳地帯からの大きな河川が少なく水力発電が難しい樺太では、発電の多くを火力に依存していました。そのことから炭鉱開発が進みました。樺太鉱業は石炭を中心とします。
1928年(昭和3年)内川炭鉱(内路村)と内幌炭鉱を開放しました。また川上炭鉱の三炭鉱があります。樺太全土はほとんど石炭の島といっても過言ではなかったといわれるほど、豊富な石炭資源に恵まれていました。
石炭は燃料として、川上炭鉱からは大泊、内川炭鉱からは敷香のパルプ工場、鉄道、その他一般家庭用に提供されていました。同時に、内地、朝鮮、香港等にも送られていました。内幌炭鉱は内幌の石炭液化工場の開設に必要な燃料の確保が目的で、樺太の産業政策と深くかかわっていました。
1930年代、日本の石炭需要を支えてきた九州炭の枯渇が心配されるようになり、樺太炭への期待が高まります。石炭は、樺太の重要産業になりました。ただその後、戦争による輸送船の不足などで、出炭高は1940(昭和15)年をピークに減少しました。

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(絵はがきに紹介された樺太の鉱業 稚内市樺太資料館の展示から)

石炭が豊富にあったおかげで、樺太のエネルギー事情は良好で、冬も暖かく過ごせたのはもちろん、産業も発展していったといえそうです。


○林業とパルプ工業:日本のパルプの80%を、樺太の森林が支えた


 森林は、樺太天然の大宝庫でした。樺太全面積の8割強は森林地帯によって占められていました。樺太の森林のほとんどが国有林で、樺太庁が管理運営していました。樺太の針葉樹林はパルプ生産に適していました。1914(大正3)年の三井合名会社大泊工場を最初に、各地に相次いでパルプ工場が建設されました。1933(昭和8)年には、王子製紙・樺太工業・富士製紙の三大製紙会社が合併しました。巨大化した王子製紙は「大王子」とよばれ、樺太のパルプは日本の供給量の80%をしめました。

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(上左:樺太工業泊居〈とまりおる〉工場 上右:富士製紙知取〈しりとる〉工場の調木室 下:王子製紙大泊〈おおどまり〉工場 稚内市樺太資料館の展示から)


当時の樺太は、日本国内の製紙業にとって、かなり重要な土地であったことがわかります。

○農業と牧畜:養狐場の風景は絵葉書にも登場


樺太ではお米が取れないため、おもに麦やデンプンの原料として馬鈴薯が栽培されていました。このほか、豆類、麦類、ビートなどが栽培されていました。寒冷地で耕作可能な期間が短いため、家畜を飼って耕作に活用する有畜農業が推奨されました。
牧畜では馬、牛、羊などのほか、動物の毛皮が防寒具として使われていました。養狐場と呼ばれる施設でたくさんの狐が飼われており、銀黒狐襟巻きと呼ばれる全長108cmの銀黒狐の襟巻きなどが作られていました。狐の襟巻きは非常に高価なもので、数多くの近黒狐が素材としてアメリカに輸出されていました。

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(稚内市樺太記念館の展示から)


狐の飼育場は、樺太ならではの風景として観光絵はがきでもたくさん紹介されていました。

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(稚内市樺太記念館の展示から)


動物の毛皮を防寒具として使うというのは、現代では批判の対象になっていますが、当時は貴重な現金収入となるものとして、養狐は重要な産業だったようです。

〇感想


今回、樺太記念館に足を運び様々なお話を聞くことで、樺太の歴史を詳しく知ることができた。今でこそ過疎化が進んでいるこの地域も、昔はもっと栄えていたことや、稚内が市となった理由など、普通に暮らしていたら知らなかったような知識まで知ることができた。現在、このような歴史を知っている若者世代はあまりいないと思う。しかし、1度聞いてみると興味が湧いてくるのものだと思う。みなさんも1度自分の住んでいる街の歴史について考えてみるといいかもしれない。(豊田)

稚内に生まれ、稚内で育った私ですが、意識して樺太について考えたことがありませんでした。樺太と1番近い稚内に住んでいるため樺太のことを知っている気でいました。ですが戦前の樺太の人々がどのような生活を送っていて鉱業や農業、漁業などをどのように発展させていったのか知らないことがたくさんありました。
また戦後の引き揚げに優先された人は女性や小さい男の子たちで家がない人々は稚内防波堤ドームで寝ていたこと、引き揚げ者住居が作られたこと。戦後から数年後に兵隊が函館や舞鶴などに引き上げたこと。またシベリアに連れて行かれ強制労働させられていたことなど知らなかった樺太の歴史について学ぶことができました。もっと勉強したいと思いました。(土門)

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