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離れない不安を吐露したい⑥

特に説明はしていませんでしたが、今私はコンサルタントとして働いています。きらびやかな世界、頭脳で経営者の力になる世界、厳しいながらも一人で生きていく力がつく、合理的でくだらない慣習はない、意外と人間関係はドライだ…そんなものを想像していました。

半分くらいは当たっていたと思いますが、コロナ下で、大した経験もなく入社した私にとって、そこは地獄と言わざるを得ませんでした。

何一つ仕事の内容は分からない、自分にはロジカルシンキングも、PPTもExcelもリサーチもできない、頼れる人もいない、それなのにリモートでの仕事はあり続け、当然のようにミスを犯し、あきれられる日々です。外資系ですから、一からやさしく教えてくれることを期待していたわけではありません。それでも、使えない人間に対する仕打ちはあからさまで、3年以内に半数が辞めるという実態がよく理解できました。コロナじゃなければもう少しまともだったのだろうと思うと、つくづく自分の不運を呪うばかりです。内定が出たころは、まだコロナがここまで蔓延するとはだれも思っていなかったですから。

必死で食らいつく毎日です。在宅勤務の中で、日が変わる前に寝れた日は数えるほどではないでしょうか。毎日やることなすこと一つ一つに緊張しながら、朝は恐ろしい欝な感情に襲われます。わずかばかりの自信やプライドはすっかりなくなり、仕事のできない自分に嫌気がさし、メンバーに申し訳なく思い、それでもずうずうしくお金をもらっていることに、罪悪感すら覚えます。死ねるのなら死んでしまいたいです。

と、ここまで振り返った時に、私の人生はなかなか不幸だなと思います。それは自ら招いたものもありつつ、どうにもならなかったものもあり、それらが絶妙な組み合わせで出現することで、絶え間なく私を苦しめていました。特に、社会人になってからの3年間は(つまり今は)、何度死にたいと思ったか分かりません。

もしかしたら甘えだと言われることもあるでしょうが、人の心のキャパシティは人それぞれです。三浦春馬や竹内結子が死んだとき、きっと皆さん思ったはずです。「なぜ、もったいない」と。でも、きっと彼らは彼らなりに耐えられないことがあって、死を選んだのだと思います。その決断を、私にはどうしても非難することが出来ません。これ以上なく悲しい事件だと思いますが、私も自死したときに、外野の人間から非難されたくはないと思うからです。

でも、私はまだ死ねません。父の面倒を見なくてはいけないし、死んだら死んだで「上」(兄弟姉妹)に迷惑がかかるからです。だから、生きなくちゃいけない。でも、生きていたいと思うには、それなりに逃げ道が必要です。自分を認めてくれる人が必要です。自分で自分を認めるだけでは無理があります。

私は関西に一人で、リモートワークで、少ない友達はさらに離れていきました。たまに帰ってきても、会える人はどんどん減っていきます。みんな、結婚したり子供を産んだり、そこまでいかずとも大切な人を確り作って、そうでなければ仕事に邁進していて、或いはアフター5を楽しんでいます。

一人で生きていく決意をするにはまだ私は少し若いのです。本当であれば誰かと一緒にいたい。けれど、私の精神状態と、出会いの場に鑑みて、それは恐らく無理です。マッチングアプリは、私にはできません。写真とステータスだけを見て、恋愛関係になるであろうとを前提に誰かと会うということに対し、違和感が拭えないからです。

だから、たぶん私はいつまでも一人です。一人はそれなりに気楽でありながら、私はもう、自嘲気味に自分を憐れむことで自らを守るしかないです。朝起きた時には、形容しがたい絶望感に襲われます。ぐっと飲み込んで、布団を這い出て、味のしない食事をして、仕事をし、休みの日は動けなくなって、酒だけをあおります。酒が逃げ道にならないことは、社会人になってから知りました。

わずかばかり残っている私の「正常さ」が、いつもいつも自分を不安にさせます。このままでは、私の使えなさは社内中に広まり、いつか追い出されるでしょう。そういう会社です。でも、それに抗う力を奪うには十分な、高い壁が毎日出てきます。確か、ネズミに電流をかけ続けると、退避行動すら取らなくなるという実験を聞いたことがありますが、まさにその状態だなと思います。その上、一人で生きていくことが果たしてできるだろうか。友達はどんどん減っていく(というより、彼らには別に大切なものができるので、声をかけづらくなります。その程度の仲だったということなのですが)し、恋人なんてもってのほかです。父は長くないし、姉にも家庭や仕事があるので、何度も頼るわけにもいきません。

自分には何が残るのだろう。何を残せるのだろうと、時々思います。その答えは毎回、自分なりに考えた挙句、限りなく「無」です。生きている意味なんてないんです。よく、生きている意味なんて考えても無駄だということも聞きます。それは少し違くて、生きている意味を本気で考えたことがない時点で、幸せなのです。生きている意味なんて本質的に考えるようなことではない。答えがない問いで、自分なりに納得できればそれでいいものです。そんな無為なものを本気で探すときとは、自分の存在意義が分からなくなった時です。存在意義が分からなくなった時とは、恐らく死に近づいているときです。そんなものは近づかない方が幸せでしょう。

不安から逃れたくて、死んでしまえば楽になると何度も何度も何度も、本気で思います。


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