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師と弟子の関係

道における師と弟子の関係とは、難しいものでもなく、緊張するものでもなく、ましてや盲目にただ従うものでもない。

 本来は、ヒトの本質の行為である、”道”と一体化し学んでいくという、最高度にワクワクし楽しい時間と空間を共有し、共に学んでいく、さわやかで愛に満ち満ちた関係がそこにある。

 それでも、弟子と言うのは、いろいろな者がおり、時にはトンチンカンで無礼な未熟者もいるわけで、普通、宗教には師と弟子の間に厳しい”礼”が定められており、弟子が師に接する時などには煩瑣なルールがある。

 例えば、ボン教では以下のように定められているらしい。

 http://bonjapan.jimdo.com/教えを学ぶときのマナー/

 これらは、”道”を学んでいくにあたって至極あたりまえのことであるが、またここには大いなる罠がある。

 ルール、礼や宗教での禁戒やら勧戒などは、”道”やそれを体現する”師”を守り、そこへ稽古人が正しく進むという意味があるが、その意味を分からないで、ロボットみたいにやってしまうと本質から遠ざかり、大きくハズレやすいのである。

 その典型がオーム真理教の例であろう。

 さて、最近、面白いことがあった。

 師匠がMLで、自分の愛する弟子たちに愛の鞭で”喝”を入れたのである。その弟子へのメッセージは愛のこもったもので、文章は非常に気遣いがみられた所もあったが、一般会員だったら良いが、師匠がMLで書くべき表現では明らかになかった。

 表現をもっと考慮すべきだった。

 つまり、師匠は間違った表現を用いて、ML上で大失態をおかしたのである。多分、瀕死の組織の再起をかけようとしていたところに、コアーな愛する弟子たちがもたつき、大震災の逆風もあって、ついついイラついた表現になったのだろう。

 師匠の位置というのはいつも辛いものである。


 MLでは一般の様々な会員が閲覧するものであり、コアーな稽古人に向けには全く問題がなかったが、一般常識から抜けきらない市民としての会員もたくさん見ているのである。

 また文章は非常な誤解を受けやすいのである。

 稽古人が観ている世界と、一般市民が見ている世界は全く違うのである。かなり引いた常識人の会員もたくさんおられたろう。

 私は、そのMLメールを見て、生意気にもすぐに師匠にメールを個人的に送らせて頂いた。

 外にでた私がでしゃばるまでもなかったが。。。
 
 周りにいる者が、ちゃんとそれは違うのではないか?と指摘しないと、裸の王様になって、組織はますます硬直化していくものである。 

 こういうさわやかな関係はとても大切なのである。

 もちろん、メールでは最高度の礼をもって、思いっきりカーブの表現で書いておいたが、すぐに師匠は分かったろうと思う。

 多分、それを読んで師匠は”ニヤリ”と笑ったと思うのである。

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