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【玉ねぎ理論―漸修禅を超えて】

▼こちらのヒンドゥーのグル(師匠)達が、稽古を玉ねぎの皮むきに喩える。

稽古は学んだ事を日常生活の場面場面にて応用するわけであるが、その本人はその瞬間!場面場面で何が起ったか皆目わからない。

何てこともないし普段どおり過ぎるので自覚ない。

しかし、その認識や行為は時空を超えて仰天の事が起きていると師匠達は言うわけである。一つの柵や固定観念が剥がれ落ちたのであるという、、、

▼それを玉ねぎの皮むきに喩える。

日々道を歩むと一枚一枚玉ねぎの皮(固定観念)は剥かれていく。
日常の場面場面にて一枚一枚剥がれていく。

時には前に一歩を歩めない。苦しくなって土俵際に追い込まれる如く。
しかし、ただただ雨の日も晴れの日も意味もなく淡々と歩み続ける。

すると、ジワジワと少しづつ芯に到達していく時がやってくる。

そして、それさえも取り除かれると、ただ真空がそこにありてある、、、
真の解き放ちは突如起きるというわけである。

▼ウチの師匠もよく仰るが稽古はくれぐれも一生懸命やるなョ~。むしろ
細く長くやってくれという。急ぐよりも淡々と続けた方がよいという。

玉ねぎ理論というのは実にその通りだと思える理論であり実理論である。
禅で言えば漸次にて修行して一歩一歩いく漸修禅である。

なんやかんや言って“道”はここが土台であろう。
自分たちは二元を基盤にした世界観を創造してるからであろう。

▼他方、非二元的な世界観を基盤とする頓禅があり、
「順序次第の階梯を経ず、速疾の証悟を得、心地を開明すること」である。
これは王道中の王道であると思うが、頓悟頓修,頓悟漸修,漸修頓悟,頓修漸悟と四つの言葉があるとおり、この二つの道の識別は道を歩んでいく中で入り乱れて展開されているように思う。

とにかく、最後は一切の学習(カリキュラム)は終わりに向かうのであろう。


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