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ハイダカン旅行記

ヘラカン旅行記<1>

この二年半ネパールに来て、仕事以外では個人の旅行をしたことがなかった。思い切って、私が愛する北東インドのヘラカンアシュラム(修行道場)へ出かけることにした。

思ったらすぐに行動!


ビザを取りにインド大使館へ行った。大使館はヒトヒトヒトだらけだった。前回ビザを取ったときは、裏から申し込んだので二日間でビザがおりた。今回は、正規に申し込んだが、結局、8日間もかかってしまった。

 ビザの発行が遅れたこと、また新しい仕事が入ってきたことなどで、偶然にも自分の誕生日が旅立つ日になった。友人のお兄さんが、付き添いで私に同行することになった。彼は、8年間、日本に住んでいたので片言の日本語ができる。

 若いときは、このバネーショル地区のダダ(番長)として大変に恐れられた方で、若いときの暴れようを聞くと劇画のようだったが、最近もあのYCLのお偉いさんをボコボコにして、アメリカに逃亡していたのが分かった。

 こんな方と一緒に旅行できるのかな~、という不安もあった。


 当日、早朝から大変に重要な仕事を済ませて仕事の緊張が解けないまま、トリブバン空港から飛行機で飛び立った。荘厳ヒマラヤがクッキリと白く輝いていた。ボッーとその光景を眺めながら、インドとネパールの国境地帯ネパールガンジへと向かった。仕事のことが頭の中をグルグル巡っていた。


 ネパールガンジは、ネパールの南、国境地帯にある大きな町であるが、カトマンズより非常に暑く蒸していた。この空港に降り立つと、やっと日常から解放されて旅行気分に変わっている自分がいた。

 そのまま迎えのジープに乗り込み、イミグレーションに向かった。人々の肌の色は明らかに黒くなり南の人の特徴が顕著だった。田園地帯を走っていると、両サイドに真っ白なこぶりのハスの花が何百と咲き誇っていた。そこには色鮮やかな美しいカワセミがいた。

 自然が豊かなところだとすぐに思った。

 イミグレーションに着くと面白いことがあった。インドとネパール共にオフィサーは、無表情に淡々と事務をこなしていたが、双方ともでオフィサーはハッとした顔をして私に質問をした。

 今日はあなたの誕生日ですね。おめでとう!

 握手を求めてニッコリ笑ったかと思うとすぐにまた無表情な顔にもどって、たんたんと仕事をしていた。

ヘラカン旅行記<2>



北東インドの街道をジープで8時間ほどひた走ったが、道は非常に綺麗に舗装されていて、ネパールのように穴などがなかった。インドはいわゆる田舎の地域でも本当に開発されてきているのが分かった。

 目的の地、ヘラカン近くのハルドワーニの町に着いたのは、予定より2時間遅れの夜の7時ごろだった。もう、あたりは真っ暗であった。ヘラカンはここから約35キロほどであるが、山の中に入ると道が険しいので、この町で予定を変えて一泊することになった。


 ハルドワーニの町は非常に開発されていて、もう驚かされてしまった。

 大きなモダンな商店街が街道に沿って並び、店店のウインドウはとても大きく、日本のそれと何も変わりなかった。行きかう若者たちの顔が泥くささが抜けて町の若者のそれだった。この町は、様々な有名な観光地のステーションになっているが、インドはこんな田舎町まで開発が進んでいた。


 翌朝、まだ真っ暗な中、4時半に起床した。


 ホテルの近くの川原を散策したが、暗闇の中を風がピューピューと吹いて、大変に心地よかった。体操を少し行ったが、自然の力強いエナジーが体の底から良く感じられた。やはり、インドだなと思った。


 ホテルに帰ると、友人の兄さんがすでにタクシーを予約して待っていてくれた。すぐに身支度をすませてヘラカンへ向かった。ヘラカンへ向かう道は、私にとっては非常に思い出深い道だった。


 一度、大嵐にあって、その日は日本にどうしても帰らなければならない日だったのだが、道ががけ崩れや川の氾濫などで何箇所も大寸断されて、仕方なく35キロの道のりをびしょ濡れながら歩いて帰ったのだ。

 その時は、なんと70歳の女性がいて私は彼女の手を引っ張ってほとんど歩いたのである。

 道を歩いていてその崩れように、それは生きた心地がしなかった。歩いていると上からパラパラと崖が崩れて石が落ちてくるのである。なんとか無事に着いた思い出があるのである。


 道を走っていると、その時のことが思い出され一人非常に感慨深かった。

 このヘラカンまでの道も綺麗に舗装されて、なんとわずか1時間で着いてしまった。私の記憶では、約2時間ぐらいだと思ったのだが…、あっという間につてしまったわけだが、周りの愛するヘラカンの自然の中で心は嬉しくて仕方なかった。

ヘラカン旅行記<3>


 ヘラカン・アシュラム(修行道場)の門をくぐり一歩中に入っていくと、雰囲気がかわり自分の脳内とカラダが静まりかえっていくかのような感じがした。

 このアシュラムの中に歩きながら、その素晴らしさを感じていた。

 
 アシュラムのオフィースに行こうとすると、若い西洋人の男の子(ロシア人)がオフィースは一時間後にしか開かないこと、それまで下のカフェでお茶でも飲んだらどうですかと言ってくれた。


 このアシュラムは変わっていて、滞在している人の95%がいつも西洋人である。

 今回も、イタリア、スエーデン、ウクライナ、ロシア、ドイツ、アルゼンチン、イギリスといろいろな国から人が来ていた。


 アシュラムの境内であるが、はずれにあるカフェに重い荷物をかついで向うことにした。そこでは軽食やコーヒーなどを頂くことができる。カフェに入ると、その変わりように驚いた。

 ここまで非常に綺麗になっていた。

 綺麗なオープンテラスができて、すべてが綺麗に変わっていた。

 メニューもカプチーノ、エクスプレッソ、各種パスタとあった。多分、アシュラムに多数いるイタリア人が何か教えたのであろう。

 ここでチヤをすすっていると、事務局長(50代女性ドイツ人)がコンタクトをとってきた。アシュラムの館長(60代男性イタリア人)のKさんに了承をとったか尋ねてきた。

 何でも彼に会って、ここで滞在する許可を得なければならないらしい。そんなことは4回目の訪問で初めてだったが、今回、私たちは予約なしで直接来たのでそうなのかもしれないと思った。


 ここの館長は、多分、もちまわり制でクルクル変わるのだろう。

 一回は、イギリス人60代女性、二回はアメリカ人30代女性、今回はイタリア人50代男性なのであった。


 とにかく、このイタリア人館長からとんでもないことを申し付けられるとは思いもよらなかった。

ヘラカン旅行記<4>



 朝食を済ませてイタリア人館長のKさんに、ここで泊まる許可を得るべく会いに行った。

 アシュラムには川に下るための108の階段があるが、それを登りきったところに、もう一つの茶屋がある。館長は取り巻き立ちと共にそこにいた。

 驚いたことに、このイタリア人は何やらプチ聖人きどりだった。思わず私など可笑しくてしょうがなかったが、早速、滞在許可を得るべく質問をした。


 すると、ここに来る前にムニラジに会ったかとの質問をされた。


 ムニラジとは、ヘラカンババジの後を継いだ聖人で、ここのババジより、ダライラマより霊格が高いと評されたのだが、ここのババジがあきれる方便を使っていたことに苦笑せざるえない。


 こんな方便にみんな繋がれスムーズにことが運ぶのだ。


 私たちはムニラジに会っていなかったので、その旨を告げると、それならヘラカンよりムニラジの住むハルドワーニへ戻り、会ってこいという。


 今までの三回のアシュラム訪問でそんなことは一度もなかったので、何とかならないか何度も尋ねた。このアシュラムでは良く知られた日本人の名前を出したが、とにかく会ってこいの一点張りである。


 食い下がったが、しまいに彼の非常な頭の硬さに、これはもう無理だと交渉はあきらめた。最後に、彼のその聖人ぶった鼻につく態度に、ハンマーを振り下ろしてやろうと、悪いと思いつつ彼の態度をありのままに表現した。


 「どうぞ、そんなに怒らないでください。」


 彼は、声を非常にあらげながら言った。


 「私は怒っていません!」


 そして、イライラ頭を沸騰させながら立ち去った。多分、ここでは彼の権限は強くて、アシュラムで私のように口をきくものはいないのだろう。

 その後、そのやりとりを黙って見ていた、取り巻きの一人のようなアルゼンチン出身の青年が私に噛み付いてワンワンとなまった英語で怒鳴り散らしてきた。


 私の館長に対する態度が気に入らなかったらしい。


 可笑しくて話にならなかったが、隣にいたロシア人の青年があまりの酷さにみかねてか、あんたカルマヨーガ(作務)の時間じゃないのかと強く言うと、彼はハッとして怒鳴るのを止めて向こうに行ってしまった。

ヘラカン旅行記<5>



 ここの館長は私と話していて頭から湯気が出ていたが、私たちも理不尽な申し付けに頭にきたと同時に、私はあることを考えていた。


 このアシュラムにやってくるほとんどの者は、ヘラカンババジは神でありグルでありアイドルであり、それで頭の中がいっぱいである。


 ヘラカンの素晴らしい、神そのものである大自然、風や山や川や光などは二の次、三の次である。


 彼らと話していると、すぐにババジが何やらかんやらというのである。すべての基準がババジなのである。


 ババジの存在を崇め祭って、そこに完全にハマッテ陶酔しているわけである。

 
 一種の自己逃避か頭が相当に弱いのだろうと正直に思うが、これはどこの世界でも行われてきていることであり、武道界でもチベット仏教界でもスポーツ界でも、世界中あらゆるところで見ることができる。



 特に、このヒンドゥーのグルシステムというのは、非常に形骸化しているが、完全なる服従を求めるところがある。一端その中に入ると、馬鹿みたいな人間が大量生産されるところもある。


 それを偉いカリスマグルが悪用して、お金を騙し取ったとか、女性に手を出したとか、そんなたぐいの話はここでは枚挙に暇が無い。


 
 師と弟子の関係と言うのは非常に大切なものであるのはよく知っているつもりである。


 師に空っぽになって向わなければ、何も得られないことも知っている。それでも、最後には師をも斬り捨てるという大疑団がなければ、とうてい真実在へは離脱できないだろうことも分かっている。


 叡智や理性を捨てろということではないのである。むしろそれを鋭い剣のように徹底的に磨いていくべきなのである。


 バクティー・ヨガの大聖者でもあるラーマクリシュナが最後はどうやって真実在に離脱したか見て欲しい。


 ここの西洋人の輩を見ていると、アイドルへの陶酔レベル、彼らがクルタやドーティーを着てサンスクリットの歌を歌っているのを見ると、どこやらの幼児のコスプレパーティーか何やらごっこにしか悲しいかな見えないのである。


 ハッキリ言ってうんざりした。


 楽な方に流れるのはたやすいが、それは何度も言うが自己逃避にすぎないのである。


 ということで、みんながヘラカンに来る前にムニラジに会うことは知っていたが、私は敢えてここに来る前にムニラジには会わなかった。ここでは古株の日本の友人にもわざわざ電話して、会わなくても大丈夫なことを確認していた。

 

 私は、グルやらババジに会いに来ているのでなく、このヘラカンの素晴らしい大自然に愛に来ているのである。


 そんな私の思いが、このグルシステムにハマッテイル輩には気に食わなかったんだろうなと思った。

ヘラカン旅行記<6>




ヘラカンに着いて早々に、館長とケンカになってしまって、友人のお兄さんに非常にすまない気持ちだった。なんという融通のきかない男だと、腹が立って仕方なかった。

 いつまでも凹んでいても仕方がないので、友人にアシュラム全体を案内することにした。

 このアシュラムは、全体が瞑想スポットとも言える不思議な時間と空間で、冗談でなくトイレでしゃがんでいても自然にスッーと瞑想に入ってしまうような場所である。

 その中でも、川を挟んで対岸の境内にある洞窟は最も瞑想に深く入るスポットとして有名であり、たくさんの人がいわゆる神秘体験をしているという。

 ここはヘラカンババが突然に肉体を物質化して最初に現れた場所だと言われている。そんなことを説明しつつしばし瞑想をした。



 すると、自分の潜在意識というか奥に渦巻いているものがわんさか出てきた。


 一つは、ネパールで二年半過ごしてきて、心身ともに疲労困憊している自分が見えた。これは知っていたことだが、ここまで疲れ切っているとは知らなかった。 


 海外で暮らすとやはり苦労が多いのかなんて、自分を見ていた。


 もう一つは、先の館長に怒り狂っている自分がいた。

 
 瞑想を解いた後、この館長をとうして怒りについて学ばされているのかと思った。自分はすぐに激しく怒りやすいパターンがあるが、洞窟の中で見せられた。


 その後、部屋に戻って仮眠をとった後、アシュラムの後ろにある渓谷に行くことにした。

 アシュラムの背後には、美しい田んぼが大きく広がっているが、そこを通る水路は勢いよく水を湛えていた。


 過去に、みんなには内緒で渓谷を登って、いくつもの小さな滝で私は滝行をしていた。非常に危険な渓谷なのでみんなを連れて行けなかったが、水が少ないときは出来ないが、水が多ければ滝行は出来るのだ。


 ここでは、サイダーが蒸発していく如くに、自分の身体が消えていく体験を何回かしていた。なんで同じようにそうなるのか不思議だったが、美しいエメラルドグリーンの渓谷であることは間違いない。


 ワクワクしながら水路を遡っていた。

ヘラカン旅行記<7>


 水路を遡って行くと、途中、枝木を重ねた柵が作ってあって、明らかに入らないようにと示してあるようだった。多分、この水路の水源は農業要水だけでなく、生活用水にも使われているのであろう。

 そこを乗りこえようとしていると、男が声をかけてきた。一瞬ヒヤッとしたが、散歩にいくのだと伝えると何もそれ以上言わなかった。

 水路を遡ること15分あまり渓谷が見えてきた。

 エメラルドグリーンの美しい水を湛えていた。


 渓谷までくだっていくと、びっくりするようなことが起きていた。川の水は綺麗なのだけれど、あたりは鉄砲水でもあったかのように、グシャグシャになっていた。大量の土砂や大きな岩が転がって、渓谷の様相は一変していた。


 まわりの崖も崩れていて、よくもまぁ、こんな大きな岩が流れてきたという巨石もあった。あたりはドロドロで岩はすべて泥色に染まっていた。

 水だけが澄んでいた。


 様相はかなり変わっていて、過去に入った滝が無くなっていたわけだが、さらに渓谷を登って行くと、見覚えのある場所もあり、一つの滝が現れた。

 滝の高さはわずか4mほどで、淵の広さは4Mほど、水深ががとても深くてエメラルドグリーンである。太陽に照らされてキラキラと輝いて、何やら神秘的である。


 あたりを見回して真っ裸になって、人が入ってはいけないような神秘的な淵に、思い切って飛び込んだ。滝の下まで泳いで行くと、滝壷が深くて足がつかない。私の身長は185センチなのでかなり深い。


 仕方が無いので、そのまま浮きながら頭だけを滝の下にいれた。


 頭だけ滝に打たれ、滝行をしていると、首から下が水の上にプカーンと浮いてしまう。なんとも妙な滝行だったが、水がやわらくてやさしくて、自然そのまま、清浄で無垢な滝だった。

 滝から出てきて巨石の上に大の字に寝た。


  寝転がっていると、肉体をもって、この美しいアート世界に生きていることが実感された。肉体をとうして、この美しい大自然を満喫することが、ヒトにとってどれだけ大切なことか実感された。


 我々がこの世界に降りてきて生きる一つの大いなる喜びなのだと思った。

ヘラカン旅行記<8>

翌日、早朝からふたたびハルドワーニの町へ向った。インドタイムで7時出発のジープバスが45分遅れて、結局、ハルドワーニに着いたのは10時ごろだった。

 ムニラジさんに会うべく来たのだが、彼が経営しているアーユルヴェーダの薬の店には、彼はいなかった。

 ムニラジさんは、ヘラカンババジの命令で、奥さんをもって子供を作り、職業を持ちながらカルマヨーガを行いながら修行せよとの事で、聖者でありながら、社会生活にドップリつかり、大家族を持ちながら店を経営しているわけである。


 3時間あまり待って、やっと彼に会うことが出来た。


 ムニラジさんに、なぜ会いに来たのか、その経緯をすべて説明すると、なぜわざわざヘラカンから戻ってきたのか?その必要はないのだよ、といわれてしまった。


 電話一本で済むことじゃないか、とあたりまえのことを言われたのだった。彼は、私たちに同情して悲しそうな顔をした。

 最後に、日本の友人のメッセージを伝えると嬉しそうに微笑んだ。

 


 弟子が師の意向とは全く別の方向性をもって、教条的になったり、全く別のことをやっていることは良くあることだ。


 私も組織に属していたので、そんなことを見すぎてきた感がある。一番弟子、二番弟子という高弟が驚くほど何も理解していないことがあるのである。


 逆に、恐ろしいことだけれど、組織に属していない遠い人が、師の思いをしっかり理解し、継いでいることがあるのである。

 
 イタリア人館長を見ていると、まじめでまっすぐな男であるが、随所において何も分かっていないことが見受けられた。簡単に言うと権威と教条主義にハマッテいるのが見受けられた分けである。


 彼のとりしきるアラティーの凄まじいどうしようもなさは、それを物語っていた。何もエネルギーが流れなく滞っていたわけである。死に体だった訳である。天地に吹き抜けるなんてありえない訳である。


 ババジの教えやエネルギーはもうすでに儀式では無くなっていると思われた。彼の私たちにたいするもてなしを一つ見ても、こうなったのは当然の結果であろう。

 
 さて、ヘラカンババジの指導は、シヴァー系列であるだけに、その指導はいささかエキセントリックで激しく破壊的なものであったそうである。

 ファニーなしかけで弟子のエゴを思いきっりふくらませておいて叩き壊したり、女性の弟子でも悪いことをしていると、杖でそれが折れてしまうぐらい容赦なく叩きに叩いたと言う。

 彼は、イタリア人の男には黒い服だけを着るように命令したそうだが、全くナンセンスのことを平気でやらせたわけである。


 ちなみに、黒い服はヒンドゥー教で特別な意味をもっていて、その色はシヴァーの僕であり、サニー・デーヴという破壊の男性神を象徴した色である。

 ヘラカンのイタリアン人館長も、毎日、ババジ亡き後も、忠実にその教えを守って、黒い服だけを着ていた。そして、トリシュリー(三叉に分かれた矛)を片手に持っていたが、どう見てもまじめすぎるからだろう、それが祟って悪魔教の僧侶という雰囲気だった。

 彼の二人の取り巻きのイタリア人も毎日黒服を着ていた。


 その取り巻きは、私から言わせると、礼儀も中身も何も無い、何も分かっていないどうしようもない輩だった。師のレベルを見たかったら取り巻きを見よとはよく言ったものだ。


 ちょっと辛口かもしれないが、これは事実なのであった。


 ナンセンスのことをやらせるのは良いが、ババジはこのような結果になるのをわかっていたのかなと思った。


 それとも、種馬と言われるイタリア男たちを落ち着かせるために、黒服を着させ続けたのかな~、なんてブラックジョークを思いつき、一人心の中で笑った。

ヘラカン旅行記<9>

 アシュラムの朝は早い。
4時半に起床のラッパが鳴り響き目を覚ます。

 そのまま身支度を整えて、アシュラムの下にある川へ、108の階段を降りてくだる。あたりは真っ暗闇で星がちりばめたように輝いている。手が届きそうである。

 川では禊をするのだが、山奥であるから早朝は冷え込んで、息は白い。川はそれなりの勢いがあり流れは強い。そして、真っ暗闇であるので何も見えない。

 いつも禊をする前は、恐怖が自然に湧いてきて、エイヤッ!という勇気?が必要だった。


 思い切って川に入ると、やはり冷たいが頭の天辺までザブンとつかる。つかると後は楽になる。あおむけになって川に寝転がる。


 星が美しい。北斗七星がキラキラ輝いている。

 川の流れは強く激しくたくましく、ライオンのようであり、また、優しく、イキイキとして清浄である。


 石につかまりながら、そんな川の流れに身をひたすらまかせる。体の力みがどんどん抜けていく。天空の星星が信じられなく見えてなんとも不思議な気持ちになる。


 水と星、これは奇跡だ。

 流れ星がサッーと流れた。


 ここはどこなのだろう、自分が誰なのかも分からなくなる。

 雄大な川の流れに身をまかせながら、満点の星星が広がっていた。

ヘラカン旅行記<10>

 川での沐浴が終わってあがってくると、体はいつもブルブル震える。
息は真っ白で寒いのだが、心身は非常にさわやかで澄みきっている。
とても気持ちいいのである。


 そんな中、そうかそうかと気づくことがあった。


  天界=人間界

 私にとって、天界というと神々がおわし天女が舞ってハスが咲き誇り鳳凰が飛んでいるイメージであり、人間界というと戦争やら飢餓やら旱魃やら矛盾の巣窟というイメージであったが、これは同じであるぞと気づいた。


 私たちは、自分のことを誤解しすぎているのだということに気づかされた。私たち人間は神そのものとしてここにおり、まわりには素晴らしい大自然が広がっている。


 すでにここは天国そのものであり、自分自身も神自身そのものであるが、どうやらそれを忘れてしまっているようだ。見えなくなってしまっているようだ。


 大自然には、人の智情意を開く、様々なバイブレーションがあると思う。力強さ、やさしさ、あたたかさ、しなやかさ、清浄さなどなど、それと直に楽しく交わっているうちに、霊性は自然に開かれていくように思われた。


 お寺の中で歌を歌ったり、礼拝することも大切だけれども、これだけでは何かが足りないような気持ちがする。そういう人たちは、往々にしてヒヨワイ感じもする。自然のたくましさやしたたかさが無いのである。


 また、往々にしてお寺の中で形ある神様に囚われているから、スピリチュアル・ベッガーになりやすいのではないか。

 
 何かあるたびに神様、神様、神様…、神様が何かしてくれないかいつも待ち望むのである。たしかに、奇跡のパワーは何やらあるのは分かるが、自分の中にそれと同じものがすでにあるのである。


 そうではなくて、お寺からも出て荒野に入っていって自然と交わることが、いかにも大切なことだと思われた。自然を読み解けるものは、いかなる経典の類のものは要らないというが、そのとおりなのだろうと思った。



▼おまけ

カトマンドゥーへの帰還<上>

 昨日の深夜二時にインドへ帰ってきました。帰路は初めてインドの寝台車に載って14時間ゆられてネパールのボーダーへと移動しました。

 その最終地点は、ゴーラクナートという名刹がある、ゴーラクプールという町でした。


 この町についたことは、私にとって面白いシンクロでした。


 寝台車の中で、私は一冊の本を読んでいました。


 それは、私が宿泊したヘラカン寺院のババジ(精神的指導者でありシヴァー神の化身をそう呼ぶ。)が口述した美しい詩的な文章でした。

 さて、このババジは、信じられないことに(インドでは当然かもしれないですが)、ある日、突然に洞窟の中に、20歳の青年の姿で現れました。

 以来、12年間、ヒンドゥー伝統精神を復活させ、村の道・橋・水道などのインフラをつくり、学校をつくり、病院をつくり、多くの人々の病気を癒しました。

 その生涯は、ただただ人々に献身し無限なる愛を与え続ける生涯でした。


 今回、彼に9年間連れ添ったプジャリ(浄化の儀式を司る僧)からいろいろな話を聞くことができました。

 ババジはネパールにも何回か来ており、一度は聖典にも神々の舞台として書かれている有名なデーヴガートで身を沈め、マハーサマディー(ある特殊な瞑想状態に入り昇天する)に入ったということでした。


 それでも弟子たちの泣きの懇願と祈りで、また川から上がってきたとのことでした。

 多分、分からんチンの人間たちに嫌気がさしたのでしょうが、自分の師匠を見ていて、その気持ちは良く分かる気がしたものでしたが、痛くショックでした。

 さらに、ショックだったのが彼が毒殺されたようだということでした。

 当時、この地域で絶頂の人気と名声に嫉妬したある精神的指導者が刺客をつかわし、暗殺ではよくある注射針でそれを行ったとの事です。


 昔から、聖人はキリストよろしく皆殺しにされてきましたがババジも例外でなく、先のプジャリに尋ねたところ、目から涙を流しながら、もう終わったことだから何も言わなくて良いのだと、暗に認める発言をしたのでした。



カトマンドゥーへの帰還<下>

 寝台車で読んでいた本は、ババジが口述した美しい詩的な教えでしたが、それはなんとカトマンドゥーで口述されたものでした。


 しかも、それはネパール的霊性の象徴の人とも言える、ゴーラクナート・ババジ(ネパール出自の有名なババジ)の意志をヘラカンババジがそのまま口に出したものでした。


 その本を寺院でたまたま買って、寝台車で読んでいたのですが、なんと最終駅の名前はたまたまゴーラクプール(ゴーラク村)であったわけです。

 その町には、有名な名刹ゴーラクナートがあるわけですが、ちょうどそこを車でとおりかかる前でした。


 車の中から眺めていた雑然とした町の喧騒が、ひどく普通に、不思議な感じで見られていました。


 それは、ボロボロの洋服のおじさんも、サリーを着たおばさんも、バイクの後ろに乗った綺麗なお姉さんも、それが自分自身として感じられていました。


 それどころか、見られるものすべて、電柱も車も喧騒も牛も犬も空も木々も自分そのもの、つまりは私は世界であり、世界は私であるということが、普通に感じられているのです。


 これはリアルなことだな~思ったわけですが、そのすぐ後に友人が指をさしていいました。


 あれはゴーラクナート寺院の門前であるよと...。


 不思議な偶然の一致でしたが、これからネパール的霊性をネパールに帰って学んでいくんだな~なんて思ったものでした。

 
 とにかく、ネパールに帰ってくると住み慣れた土地だからでしょう、ボーダーを越えると本当にホッとしました。


 ネパールは本当に土地も人も優しいし、女性が本当に美しい!


 というわけで、わざわざインドの辺境の地まで行ってきたわけですが、足元には宝の山がザクザクあったようで、これからネパールの霊性を学んで行きたいと心を新たにしています。



 写真はゴーラクナートババジの像です。

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