見出し画像

【真理の追究】

▼”道”と言うのは、机上の空論で終わっていては、もともこうもない。真理の追求とは基本は実参実究であろう。力を尽くして心のかぎり叡智を尽くし求めていく。稽古人の当たり前の“姿勢”だろう。

▼昭和の正信論争と言うのが禅仏教界であった。仏教大学の学者達が仏法は「学問によって解明し得る」と主張した。他方、それに激怒した禅の師家達を中心に「実参実究によって解明し得る」とした。お互いに激しい論争をした。

▼天下の禅道において、そんな論争があったこと自体が面白い。禅道には常識外れな過激な気風ある。禅堂でドメスティク・バイオレンスが炸裂するのは有名だ。いわゆる品性方正にて頭の良い学者達の無意識の大反感あったろう?と思ってしまう。

▼しかし、大いなる気づき“大悟”についても、先人の精神異常の体験だとか哲学的な構築物と思ってる仏教学者達も居るというから笑うしかない。机上のみだとそうなるのだろう。“道”の実践とセンスがなさ過ぎであろう。

▼稽古人でも本当に稽古しないで、机の上で頭だけ大きくしてると、直ぐにそうなるのだろうと思う。一年に一回でも生命かけてチャレンジ稽古しないと、あっという間に劣化していくと思う。

▼結局、実践的な真理の追求が大きく欠落していくと、世俗と常識の中では触れ得ない、天地情報にアクセス出来なくなるのだろう。特に、稽古仲間も師匠もいないアウェイの地で単独になったらもう無理だろう。

▼稽古しなくなった人が、懸命に稽古した時の“実体験”を幻だったと言う。あるいは稽古してる人でも自信が無くなっていくと、過去の実体験を貶めていく。真実を幻として貶めていくわけである。

▼真実(道)と言うのは、こちらから生命がけで取りにいかないと開かれない。常日頃から方向性もって進んでても、マンネリズムの中では命かけて求める気概や覚悟や準備が大きく欠落していく。その途端に生命情報にはアクセス出来なくなる。

▼単独で命がけの真実への入身という、そういうクレイジーな姿勢は、時に本当に必要と思う。道の上に死にきり、ただただ単独にて邁進していく。本気の実践と実究はいつも不可欠だろう。

▼禅では”大憤死”と言い「生命かけても真実を掴まざる得ない」と言う。禅道の上で欠くべからず重要な要素と言う。いつの時代でもどの場所でも、これ稽古人の要だと思う。

▼今の風潮は、何でもかんでも妥協の妥協。バーチャル空間やらヒューマニズムとやらにて甘〜いお菓子の如く包んでいく。ヒトの本来の野生味や生命が消えていく。これも行き過ぎると稽古空間にまで侵入してきて、稽古人が腑抜けになるのも今後予想できる。

▼稽古人から「生命かけても真実を掴まざる得ない」という、この大基本の姿勢が無くなったら、稽古から”真理の光”はあっという間に消えていくものとも思う。

※写真はムスタンにあるインド大陸がユーラシアプレートにぶつかる境界地帯。アンモナイトがザクザクでてくるが太古の純粋な自然が残る。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?