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【一線を越える<下>】

【一線を越える<下>】

利己的にして思い切って本能で動く大将の暴力行為と手下どもの一連の反応を敢て書いた。先に書いたように残念ながら今なお世界中で君臨してるのはこのような種類の人々であろうし、それに対応するように無意識に従い続ける人々も全く同じようなメンタリティの上に立っていると思われる。

支配層は極めて利己的であり本能(欲ボケ)に従いながらも、連綿と時代を超えて一線を越えて世界へ働きかけ続けてきたと思われる。上に立つものは新しい発想と行為が無いと滅びる。ネパールグンダ達も今では本業は金貸し業だ。他方、盲目がお得意な大衆たちはロボット的にただそれを受け入れて従い続けてきた。

一つの違いは、上に立つものは自由なる立場で己のエゴを満足させるためにモラルや常識をぶち壊しつつ一線を越えて賢くうまく行為してきた。日常生活に疲れ果て疑うことを全く知らないワンパターンの大衆をちょろまかすのは非常に易しい。やりたい放題で欲ボケの想いを成就させてきた。

しかし、こういう一連のパターンや反応はもう終わりにしたい。
地球上から悲惨や残酷な風景は何時まで経っても終わらないからだ。

そのためには上に立つものがやっていた如くわれわれ大衆も自由な立場と発想で、出来ることなら一線を越えて積極的に行為することだ。そうしないと何時まで経っても善意と祈りだけでは何も変らないし成就しない。

稽古において保守と言うのはダメであるし先のネパール友人の「見るな相手にするな逃げろ」という本能的な保身は最低である。もちろん状況によっては良しとなろうが、安穏として安全空間に居ついてしまい己の周りに城壁を築き外に出ようとしない、、、こんな年寄りじみた保守的な態度は稽古以前である。

常に全霊の新たなチャレンジが無いところ稽古は全く意味がない。そして、そこにおいては一切の固定観念、道徳、価値基準は脇に置かなければならない。

極端に例えると分かり易い。

人を殺してはいけないのはあたりまえだが稽古においては一切の良い悪いは外すべきだ。「どうして人を殺していけないの?」と問い続ける天真爛漫な子供の如くまっさらにして自由な立場が始まりである。

常識を徹底に疑い続け“死”と共に生き続けるのは稽古の大基本。そこから一線を越えるという真の“行為”が生じる。その具体的な行為により日常の世界は劇的に根本的に変わり続けると思われるのである。

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