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【無限の許し】


 真は真と観て、偽は偽と観る。

その識別をしっかりする大切さある。いつまでたっても妥協の妥協で糞味噌一緒にしていたら混沌状態を離れられるわけがない。

日々、味噌は味噌壷へ。糞は便器へ流す(笑。

あたりまえのことをあたりまえに“認識”でやるということである。

 
 徹底して大疑団の塊となって己の認識を研ぎ澄ます。識別力を磨きに磨いて鏡のように照らす。“観照力”を生活の中で日々身につけていく。稽古人にとって生命であろう。

さて、偽を偽としてあるがままに認識したならば、次の段階では偽の中に”真”を見つめていく稽古が大切なのだろう。天真瞑想法の11箇条の極意で言うなら9箇条に位置する“無限の許し”が自然にそこへ導いてくれると思われる。

 又、これは巷の小乗仏教などのガチガチの観照行(毘鉢舎那)の枠組みを一気に突破していき、ヨーガの最高峰の“ジュニャーナの道”という最高の“認識”の境地へ即座に導くものとも思われる。ヒンドゥー王道中の王道の不二一元(アドヴェイタ)の認識法へ、ウパニシャドないし別名ヴェーダンタなど太古の昔から存在してきた古典の宇宙観へ離脱させていくと思われる。
 
 その世界観とはあたりまえもおろか【世界は仮幻である】ということである。

 目の前に観られる形ある有限世界としての電柱、電灯、道路、車、ビル、洋服、空気、木々、草木、大地、大空、人々、一切合切は文字通りに実在しない。

世界一切は仮幻であるということである。

目に見える大地のさらに奥に控える太古の大自然(プラクリティー)その元の元から根こそぎに一切合切が消滅していく。宇宙をジッーと眺め=投影している“観照者“が完膚無きまでに消滅するわけだ。 

 宇宙の【THE END】と表現した方が良いのかもしれない。

 そして、それを起こす鍵が「無限の許し」なのではないだろうか?

 日常の中で起こってくる自他の不条理・不道徳・罪(虚偽)を見つめて、偽を偽として認識して、即座に「無限の許し」を起こすやいなや娑婆の虚偽は切り裂かれて“真実”が立ち現れる。

 自力で”それ”を起こして離脱するのは当然に不可能であろうし億万年かかってしまうと思われる。大聖典のウパニシャドにも「アートマンがその人を選ぶ」と書かれている。

 “無限の許し”とは己を離脱させ、もちろん他者も同時に解き放つ。

 ズバリ!限界なき不滅なるアートマン(ハイヤーセルフ)による“他力の道”である。真なる解き放ち(救済)へ、それを行うヒトは必ず掬い上げられる。真のショートカット、数千億年の時を超えていく『ゼロへの道』であると思われる。

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