【滝行から見る先祖供養】
【滝行から見る先祖供養】
先祖供養というと何だか抹香臭さがある。実際にそれを行っているとき、線香を焚いたりお仏壇やお墓や位牌の前で手を合わせているからなのだろう。
滝行を私は長くやっていたが、そういう方向性で行っている人がたくさんいた。先祖を供養するためだとか、見えない浮かばれない霊を供養するだとか、先祖からの因縁を解消するだとか、何やら見えない竜神や神様の指令でおこなっているだとかである。
ようするに、何か妄想なのか?見えないものに向って懸命に拝んでいたわけだが、これらの世界観の中でやっていた人は、往々にしてとてつもなく気持ちわるい人が多かった。事実だからしょうがないが、近寄っただけで鳥肌が立つような、何か異様な気持ち悪さを感じるのである。
暗くて健全でない、、、
あるいは明らかにバランスが崩れたようなパーソナリティーで、奇怪な言動の人々が多かった。
晴れ渡った青空を見上げるとわかるが、どこまでも広がっていてすがすがしく底抜けのカラッとした明るさのようなものがある。
とても明るくて健全であるのが自然の一つの特徴であるが、そういう要素が全くと言って良いほどないのである。
さて、ある有名な滝場で、今では毎日滝行を行うことによって立派な滝守になっている方がいる。
この人は私が熱心に滝行をやっていた少し後から本格的に始めた方だったが、当初はその言っている事や雰囲気が気持ち悪くてしょうがなかった。
話を聞いてると自分の心身がベトベトと汚れていく感じで暗くなり重くなり、話を聞くだけでグッタリするのだった。
神様が見えた。竜神が見えた。御宣託があった。パワーを授かった。
それが本当だっらよいのだが、明らかに思い違いだったと思う。
ようするに、自然と交わらないで自己の糞の様な想念の枠内で滝行をやっているわけである。それでも話を聞いてくれるのが私だけだったのだろう。
しつこく話してくるので私も受けにまわってよく彼の話を聞きながら、右から左から上から下から変化球を使って滝行とはイメージでやるのではなく、自然と直接にコンタクトをとるのが醍醐味であること。マントラや神サマのイメージなど抱かず無になって入ることが極意であること何度も何度も聞かせてあげた。
また、神さまや竜神や不動明王などと感応しても、それは自然のエナジーが人間に分かり易い形で現れているにすぎないとも言った。あまりにも、この方が自己のイメージの中でドロドロにハマってしまっていたからだ。
何が見えたとかこんな体験があったとか、自分の見えたイメージをよく私に自慢していた。
“行”はクールに健全なる方向性がないと往々にして迷いの世界に入る。だから、それをいつも見守り検証してくれる師匠の存在が欠かせない。
この方は無謀にも一人で『行』を行っていた。
それでも、この人の雰囲気がある時から、スカッーとして大きく変わった。1000日連続滝行をちょうど成就された後だった。そして、私に言い出した。滝行でマントラやイメージを使って入るのは嘘ですよね。無になって本当に自然と融け合うのが真の滝行ですよね。
それを何度も私に言ってくるので苦笑したものだが、この方は毎日の努力で、あるところをスコーンと吹き抜けたのであろう。この人は私がネパールに行く前はピカピカに輝いて、『絶対有』というか大いなる光輝と見事に融けあったようだった。
とにかく、先祖供養は偉大な行為だけにいつまでも思い込みのイメージの枠内でやっていてもしょうもないと思う。はじめはそれでも良いと思うが、さらにこの道には先があると思うのだ。
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