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30年の滝行体験

▼滝行は30年ほど打ち込んでやってきた。日本全国でもインドでもネパールでも滝があればどこでも入りまくった。また先導の方も延べで言ったら1000人はやらさせて頂いた思う。天真体技の中でも滝行は頓悟禅の最高峰だと自分は思ってる。

▼2015年、天真体技にて心法(哲学・智慧の道)としての天真華厳瞑想が公開されたが、滝行を徹底で打ち込むとより、その世界の真髄を直ちに大変に分かりやすく、実体験が得られるので無いだろうか?

▼さて、滝行を行じてくと日常の多忙かつ複雑さ極まるコンクリートジャングルの中でさえも、即座にスッーと静寂の領域に入れる。アスリートが仰る”ゾーン”に入るとか、稽古人が言う天地の間合に入るとか、ヨガ行者さん仰るサマディー​(​三昧)のごとく、賓主未文の境地だろう。

▼ここに入るのに10年、30年とか、天才でないと入れないとか、日常生活で幾ら懸命に頑張っても凡人はなかなか入れないと言う。それが天真流の厳寒の滝行だと一般人でも2-3回でそこまで行っちゃう方もおられる。「瞑想がよく分からない人は滝行を一度やってみなさい!」とは、そう言うことであろう。ホント分かりやすい様々な実体験が得られる。

▼滝は上から下にただ水が落下している。そこに身を任せるだけである。そんなシンプルな行である。自然にただ身を任せる​だけ。本当にわかり易い実体験を得られる。やってみなきゃ分からない。日常生活ではほぼ得難い体験あると思う。しかも、自然と共にあり、ナチュラルに入っていける。地に足がついた超越とか変容の体験である。

▼捨てられんものが既に捨てられてる。救われ無いと思い込んできた者がすでに救われてる。「大」がつく大人が入滝後にワンワンと理由も無く泣いたりする。あるいは蝉殻が外れた如く軽くなる。目から鱗が落ちて世界が光輝いて見えるとかある。もう様々であり毎回毎回違い言い尽くせない。

▼そんな滝行で得た実体験は生涯消えない。日常生活の質が仄かに、しかし劇的にガラリ変わっていく。節目節目には、その実体験が不意に現れる。人生を軌道修正してくれたり、表現は変だが救いに来てくれたりする。

▼慣れてくると日常生活の中でも、スイッチのオン−オフぐらいで入れるようになる。縦のものを横に。横のものを縦に。意識の自由度が断然に変わってくる。本当に自由度が一気に広がる。と言うか、われわれは既に当たり前も愚かで自由である。忘れてるだけだろう。

▼何回も書いたが、5年前のマグニチュード7.8のネパール大地震の際に、自分はあっという間にゾーンに入り、現実をスローモーションで見ていた。「本当の緊急時に稽古が救ってくれる」この事を先生は仰ってたかと思った。

▼泣き叫ぶだけのスタッフ達を安全な場所に誘導して、恐怖で意識を失うスタッフの氷の如く冷たい手に驚きつつ支えた。99%のスタッフが動転して、泣き叫び、この世の終わりの如く振舞った。ネパール人だけでなく西欧の初老の女性が動転して道に蹲ってたのを、直ぐに声をかけてウチの広いガーデンレストランに避難させたりした。

ネパールも西欧も地震がほぼ無いからだろうー。

▼その後は、17回ほどネパールの友人とタッグを組んで、大きなNGOや有名な国際救援組織も嫌がる僻地を狙って、二度目の大地震が続く中でも、食料支援活動に邁進し続けた。師匠や道友が間髪入れずに次々に義援金を送ってくれた。振り返れば奇跡的にその行為が、水が上から下に流れるように上手くいった。ネパールと言うモラル無き大地にて通常は有り得ない。そして、危険を顧みない単なるクレイジーな行為だった。これらは滝行をやりまくってた実体験が支えてくれた。

▼あるいはネパールと言う途上国で9年間一度も帰国せずに頑張れた?のも、異文化途上国の不便な国で17年やってこれたのも、一番はネパール友人達の支えあろうが、滝行の実体験がそうさせたとも明言できる。普通は、多数の外国人のように嫌になり最後は怒り、「もうウンザリ!ええわッ!」と途中で投げ出し帰国してるだろう。

▼わかり易い事に、大地震の救援活動後に周りの調子崩したスタッフやら知人のケアーしてたら燃え尽きた。そして人生の初にて、45歳の時だったが夕刻時に自殺衝動に見舞われた。これは理性や判断や理屈以前のもの。避け難い衝動であった。誰もあれは救えない。回避し難い衝動であろう。今は自殺する人の気持ち分かる。以前の様に邪険に扱わない。

▼そんな生命の危機的な状況でもスイッチのオン−オフの如くに入れたから、咄嗟にそこで瞬時にダイブして0化、全てを明け渡した。0コンマ数秒遅れたら危ない状況だった。あれもまさに滝行の実体験が救ってくれた。

▼この話はそこで終わらず。その日の真夜中に同じ衝動にまたもや襲われた。その時は夕刻の様に強い衝動でなかったが危なかった。稽古着に直ぐに着替えて師匠から頂いた帯しめて、剣で空間を斬りまくった。なぜそんな行為したか分からんが、それで完全に消えた。次の日に我が家のゲートの内側と外側に黒猫が一匹づつ死んでた。フィクションの如くの本当のお話しである。

▼と言うことで、生命の危機のような状況であればあるほど、滝の中で気づいた”それ”は自然に顕れ救ってくれた。その様に実感している。何よりも気軽に天地の間合いに日常生活で入れた。大空も木々も動物も自然は身近な存在である。酷く疲れたらそこに帰れば良い。厳寒の滝の中では寛ぎ安らいだ。よく感じたのが「あっ〜!また故郷に戻ってきた!」と言う感覚であった。滝から日常生活に戻れば稽古の日常化が凡人にも易しくでき得る。稽古人には本当にオススメの行である。普通の人は年に二回もやれば十分過ぎるだろう。

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