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【新体道極意】証光・上げ下ろし<FIN>

【新体道極意】証光・上げ下ろし<FIN>

【上げ下ろし】

 天相から証光に移る過程では、さらに気持ちを伸ばすようにしないと、たいていの人が証光で気持ちがストーンと落ちてしまっている。

 向こうまでズート斬る。

 空に長いソーセージを吊るされていて、水平線彼方までイメージして、それを斬って行ってもイメージがつかめると思う。

【個の解放・熟成】

 この技は、アートから見れば個の解放。

 良いも悪いもぶった切りながら、”狂”そのものとなり、一切をぶち壊す!という意気込み、あるいは「これでもか~!オレを見てくれ~!」という個の徹底主張の面がないと本物でない。

 あるいは宗教から見たら、地球にワレ一人立ち、宇宙・大自然へ向って自己(アートマン)を大きく解放させ融け込ませる。良いも悪いも無限へただただ解放していく。

 無限大は無限小へ。その天相への気持ちは、五体倒地よろしく自己の頭を地につけてアリのように謙虚になっていく無相に同じ。


【星星を斬るイメージ】

 地球ないし広大な空間に一人居り、この稽古をしていると想像する。

 そして、宇宙空間までハッキリとイメージしながら出て行って、星星や他の銀河系をスパッと斬っていく、また斬りながら上げていくイメージを創ると全然違う。

【天相=証光=無相】

 天相をただ機械的に下ろすと証光になる。
天相=証光というキリスト思想の極意をつかむこと。

 また、ワレ(アートマン)は天相(ブラフマン)に同じという、ヒンドゥー思想の極意をつかむこと。

 あるいは、自分を傲慢なまでに解放する(芸術)=地に額づいて小さくなる(宗教)が同じということ。

 あるいは死ぬこと生きることの超克。


 死ぬこと(無相)=生きること(天相)=愛すること(証光)

 という大生命思想の根幹を非常に分かりやすく掴める型だということ。

 証光=天相はよく言われるが、なぜか証光(愛)=無相(死)。天相(生)=無相(死)はあまり言及されない。この無相と一体であるという方向は大切だと思う。

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