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学生寮物語 10

10 生死を賭した闘い
 「ガンとの闘いは病気との闘いもあるけれど、自分の納得のいく治療をしてくれる病院を探し、自分が信頼できる医者と一緒に闘える環境を作ることなんや」
 安岡は自分が話した言葉の意味を、急に改まったような態度で、みんなに説明し出した。
 自分が今入院しているN病院や医者の評価はああだ、こうだと説明した。自分の命が関わっているだけに、その説明は具体的で詳細でなにより真剣だった。
 癌が治るか治らないかとか、どんな治療法があるのか、といった説明をするのだろうと予想していた翔は安岡の意外な説明に驚いた。
 だが翔の本当の驚きは、今まさに安岡が生死を賭して癌を相手に闘いを挑もうとしていることだった。そしてどんな巨大な相手にさえ、彼が決して怯んでいないことだった。
 たしかに原因や治療法は専門家である医者の方が詳しいに決まっている。大切なのは治療法やその見通しを誠実に、分かるように説明してくれる医者の存在と最善の治療を施すための施設や設備がある病院なのだ。
 冷静に考えれば確かにそうだ。だが死を目前にして人はこれほど冷静でいられるだろうか。
 寮長を務め、情勢報告や寮費闘争についての基調報告をしていた大学生の頃の青臭い安岡と明らかに違っていた。自分の身をもって、病魔との今後の闘いについて、こんなに客観的に自分の置かれている立場を自覚し、分析できるものなのか。見舞い客たちは驚きと尊敬の念を持って、安岡の話をじっと聞いていた。きっといろいろ苦悩し、模索して、自分の歩む道を選んできたのだろう。
 安岡の話は三十分か、一時間か、よく覚えていない。時間を忘れさせてくれた。彼の話は同じ病気で闘っている患者にもきっと勇気を与えるだろうと翔は思った。
 安岡は最後に翔や大村、金城、おいどんに向かって話した。
 「まっちゃん(安岡は松永をこう呼んだ)もタバコやめな、あかんで。苦しゅうてかなわん。大村さんもだで。ほんまやで。金ちゃんとおいどんは吸うとらんかったな。えらい、えらい」
 安岡はすっかり昔の寮生時代の青年に戻っていた。偉そうでやんちゃでいたずらっぽい目をしたシティボーイだった。
 それでもあまり長時間の面会はできない、という話だったにもかかわらず長話をしたせいで、その顔には疲労の色が浮かんでいた。みんなで本人を病室に見送り、その後、安岡の家に集まった。
 安岡は、せっかくみんなが来てくれるのだから、少しでもご馳走をしたい、そして寮での思い出話をしてくれれば自分の気が済むといって、酒宴の手配を鈴子となぎさにさせていた。この気配りこそ彼が憎めないところでもあった。
 彼のマンションは、名古屋駅に近い七階建ての高層ビルの最上階にあった。名古屋駅にほど近く、見晴らしが良かった。松永はいつも名古屋を素通りして、京都・奈良に修学旅行の引率で行っていた。もう十回以上は素通りをしている。だから初めて見る名古屋の街の表情をマンションのベランダからじっくりと眺めた。
 大都会のけばけばしさはなく落ち着いているが、鈍色の曇り空のせいか、なんとなく物悲しさを感じさせるモノトーンの都市だった。
 翔は中学時代に、数少ない仲良しの同級生が北海道の小さな炭鉱町の中学校を卒業して、集団就職でこの名古屋に来ていたことを40年ぶりに思い出していた。
 下世話な話だが名古屋の一等地のマンションに住み、病院の費用も大変だろうと心配していたが、安岡の同級生たちが、安岡については会社が全部面倒をみているらしいと話していた。
 安岡は全国ネットのパソコンスクールを自分で起ち上げ、その会社の取締役、つまり社長を務めていた。といっても大手ではなく、中小企業をサポートするために安い授業料でパソコンスクールを開設したり、開発したソフトを廉価で販売したりしていた。
 パソコン会社を立ち上げたのは松永も知っていたが、実際の経営については何も知らなかった。常々、働く人たちの立場に立って仕事がしたいと言っていた安岡は、自分の夢を自力で実現させたのだった。
 家ではなぎさとその娘の瞳がいて、かいがいしく宴会の準備をしていた。鈴子は安岡の世話を終えて、遅れてやってくる予定だった。
 みんなは安岡に気を遣わせて、却って申し訳なをを感じていた。だから寮生時代に戻って、みんなで酒宴の支度をした。やがて鈴子が来て、みんなで手作りの料理を堪能し始めた。
 酒宴の半ばで鈴子から安岡の詳しい病状の報告があった。
実はみんながお見舞いに来ると連絡を受けて、安岡のテンションが一気に上がり、病状が一時かなり回復した。それで調子に乗って、はしゃぎ過ぎ、二、三日前に肺炎を起こし、生死を彷徨ったという。
 みんな、そこはやっぱり安岡だと思った。
 しかし、彼は寮生たちに会いたいという一心で奇跡の回復を遂げた。それには医者も大変驚いて、まるでドラマのようだと目を丸くして話していたと鈴子が言った。
 そこまでしても安岡は寮生に再会したかったのだろう。翔は、それは彼の執念だと思った。だから今日の彼の話はみんなへの遺言状なのかもしれない。どんな相手にも決して逃げずに戦うことの尊さを、命を懸けて伝えたかったのかも知れない。
 鈴子の報告が終わっても、寮生たちは誰も口を開こうとしなかった。すると金城が
「そこまでして俺たちを待っていてくれた安岡に乾杯しよう」
とみんなに声を掛けた。おいどんたちも、
「安岡の病気の快復を祈念して、かんぱーい」
と叫んだ。
 鈴子のグラスが震えていた。目も潤んでいた。
 めいめいが自分の周りの人間のグラスに自分のグラスの角を当てた。ガラスの高い音があちらこちらで響いた。そして安岡のこと、寮のこと、卒業した後のこと、現在の仕事のこと、家族のこと、両親のこと、持病のこと……、安岡邸でのみんなの話は尽きなかった。
 

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