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雄別鉄道の記憶


 12月23日(土)9時19分。
 Noteに「父のキャッチャーミット」という小説の最終章(15)を掲載した。拙文ながらも小作品を完成させて、ちょっと達成感を覚えていた。そして「次に何を書こうかな」と考えながら、パソコンをググっていた。
 突然、「雄別鉄道」という文字が目に飛び込んできた。それはGoogleの検索窓の左下側にあった。なんと、さきに紹介した小説「父のキャッチャーミット」の舞台が「炭鉱町・雄別」で、私の生まれ故郷だった。
 「地下道奥の扉、埋もれた転車台 雄別鉄道の痕跡を訪ね
 て」というネットニュースで見つけた。私の右手の人差し指はその記事の上で、無意識にマウスの先端をたたいていた。
  「晩秋の北海道、かつて釧路と炭鉱町・雄別を結んだ雄別  (ゆうべつ)鉄道の跡を訪ねるツアーに参加した。雄別は 筆者が生まれてから数年間を過ごした町。半世紀ぶりだっ  たが、あちこちに残る痕跡を知った。後略(a)」 
 (カナコロ「前照灯」より抜粋)
 そこにあったのは神奈川新聞「カナコロ」という鉄道コラム「前照灯」No,320の記事だった。
 私はなんだか妙な気分になった。
 運命的といえるほど大げさではないが、別にどうってことないと看過できるほど落ち着いた気分ではない。
 どうしてこのタイミングで、五十年以上も前に離れた、そして消えてしまった故郷の名前を目にしたのか、私は何か因縁めいた気がした。
 消えた故郷が、私に「忘れないでくれ」と哀願しているみたいだ。一時は日本のエネルギー産業を下支えし、落盤やガス爆発などで多くの犠牲を払ってきた。その中には私の同級生の親もいた。
 単なる偶然であろうが、私がこの小説を書いてみようと思い立って投稿したのと晩秋の雄別鉄道の跡を訪ねるツアーの記事が掲載された日が同じだった。
 コラムの発表時刻は12月23日(土)の5:00だった。私の投稿よりも4時間余り早かった。気になったので12月23日にいったい何があったのかウィキペディアで調べてみた。
 すると昭和21年のその日は雄別炭坑の独立記念日であった。それはGHQの目標の一つであった財閥解体を具現化した「過度経済力集中排除法」という法律によって三菱鉱業から分離独立したのだった。この翌年9月に労働組合も作られた。 
 炭坑が閉山となり雄別鉄道も1970年に廃線となった。それは私が16歳のときだった。そのとき私は北海道を離れて、遠く静岡にいた。
 あいまいな記憶だが「雄別炭山駅」がぼんやり浮かんできた。


 不思議なことだが、駅だというのに入口に引き分けタイプの扉があった気がする。扉のある駅なんて聞いたことがない。
 気になったのでネットで調べた。すると雄別炭山駅があった。それが前掲した写真だった。
 白黒の写真だがとても懐かしかった。
 かつて私は1区にあった炭鉱住宅に住んでいた。略して炭住である。写真では途切れた東南の角の先になる。そこは1棟4、5軒続きの木造長屋だった。
 屋根はトタン葺き屋根で、雪が積もっても陽光の熱が溶かして落とした。ただしドカ雪が降ったときは除雪しなければならない。トタン屋根だから滑りやすいはずだが誰かが滑って落ちたという話は記憶にない。
 雄別はそれほど雪が多かったわけではない 同じ炭鉱町では夕張は雪が多い。
 ちなみに北海道で雪が最も多いのは、北海道の中心に近い旭川のやや北側に位置する幌加内らしい。そこは1978年(昭和53年)2月17日に、旭川の明治時代の記録を抜いて日本で最も低い温度-41.2度を記録した町だ。
 雪の記憶で一番印象的なのは家から中学校に向かうときに、自分の息がキラキラ輝いているのを見たときだった。いわゆるダイヤモンドダストだ。自分の吐息が宝石のようで感動し、しばらく息を吐き続けた。
 寒い中、除雪が大変でさぞかしみんな雪を憎んでいるだろうと思うが、そんな人はいなかった。10月の末に初雪が降ると、子どもたちは教室の外を眺め、
「ゆきだ! はつゆきだ!」
と先生の目を盗み、ここかしこでささやき合った。途中で気づいた先生もやっぱり、
「雪か。……初雪だな!」
とうれしそうに言った。
 私はよく写真中央の右下に見えるあの橋を渡って、スーパーに買い物に行ったり、汽車に乗るために駅に行った。
 橋を渡った(写真では下から上に移動)先の左手に白く四角い箱型の建物がある。そこが購買と呼ばれていた小さなショッピングセンターだった。
 映画「幸せの黄色いハンカチ」で主人公「勇作」と後に妻となる「光枝」が初めて出会った場所が、生協のスーパーだった。映画を見たとき、思わず購買を思い出し、感慨に耽ってしまった。こんな話が書けたらいいのに。
 クジラの肉が、牛より豚より安くてよく食べた。カレーには肉ではなく、アサリやさつま揚げが入っていた。ラーメンは一杯70円で大盛は90円だった。いつも大盛が食べたかったのでよく覚えている。
 現在はクジラの肉は貴重品である。100gの単価は豚肉よりアサリの方が高い(あさりはむき身)。食べ物の記憶はとても鮮明である。視覚と味覚が一体となって記憶されるからだろう。
 そして駅である。食べ物の話はきりがない。駅に行く途中で、購買にちょっと寄り道した気分だ。
 さて駅の印象だが、やっぱり左右に開く扉が頭に浮かぶ。そこから調べて、雄別炭山駅の全景の写真を見つけた(タイトルの前に掲載してあるモノクロ写真のこと)。だがそれは駅裏の写真だった。正面の写真はないかさらに調べた。


 探せばあるもんだ。 
 雄別鉄道駅の前景の写真があった。これは釧路新聞のネットニュース「テツ男社長のたわごと」2023年10月2日 月曜日の記事と一緒に掲載されていた写真だ。
 写真の中央に見える三角屋根の左下にあるのが駅の入口だ。入り口だけ除雪されている。人が出入りするからだ。
 つまり雪が降っているときは雪の侵入を防ぐため入口は閉じられていたのだ。客が利用しようとするときは手動で入口の扉を左右に開閉していたのだろう。
 靄に煙る阿寒湖(霧が濃いのは摩周湖の方だが場所が少しだけ遠いから使用を遠慮した)の水面が少し輝いて見えるように、これで私のあいまいな記憶がひとつはっきりした。
 駅に入って、右手には販売所(キヨスクみたいなもの)があり、左手に料金表と切符売り場の小窓、それと手荷物の受け渡しの窓口があった(気がする)。
 私は料金表を見るとき、阿寒や釧路でなく(出かけるのはだいたいこの二カ所)、いつも東京までの料金を確かめた。自分でもその理由は分からない。料金はまったく思い出せないが書かれていた数字は5000円(?)というようにとても潔かった気がする。こつこつお金を貯めれば行けそうな気がしていた。
 汽車は蒸気機関車とディーゼルカーが走っていた。短い距離や重い石炭を運ぶのが蒸気機関車で、人間を釧路まで運ぶのがディーゼルカーだった。
 私は蒸気機関車が好きだった。
 頑丈そうな鋼の塊が、何のためらいもなく徐々に速度を上げて線路を進んでいく様は、世界王者(どの競技でも構わない)のもつ風格があった。はじめから人間はかなわない圧倒的な説得力があった。
 ディーゼルカーは蒸気機関車に比べスマートで、きれいだった。でも好きにはなれなかった。酔うからである。バス酔いと同じである。
 船酔いほど酷くはないが酔うという点では同じだった。この乗り物とバスとの共通点は、軽油を使用するディゼルエンジンを積んでいることだった。
 ディゼルカーに乗ると、いつも車酔いを気にしないように心がけ、遠くを見つめて、
「お前は酔わない。お前は酔わない。お前は……」
と自己暗示をかける(プフッ、かなり意識してたんだなあ)。
 ちょっとでも匂いを気にしだしたり、胃や胸の辺りがむかつき出すと、
「終わった……」
 絶望感を感じ、目的地に到着するまで嘔吐をこらえようとする。だが、だいたいの場合「(ゲゲゲの)鬼太郎袋」にお世話になる。だから私は中学生ぐらいまで酒を必要とせずに酔っていた。
 そんな現象は大人になると不思議なくらいまったくなくなる。感覚器官が成熟し、錯綜していた情報が整理され、自律神経が調ってくるかららしい。
 炭鉱で生まれ、毎日ボタ山を仰ぎ見て、高い高い煙突から出る重層な黒煙に風の向きや天候を感じていた私だからか。
 選炭場から流れる鳶色の水を毎日毎日吸い込み運んだ舌辛川が私の家の前にいつも流れていた。その川を挟んで対岸の崖の上に見えた雄別鉄道の、線路を走る黒い雄姿を、毎日飽きずに眺めていたせいだからか。
 やっぱり私は蒸気機関車が好きだ。 
 完

 

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