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学生寮物語 6

6 おいどん
 「正午に名古屋駅の改札口付近で会おう」
というみんなとの約束だったので、翔(かける)と妻のさくらは八時頃三島駅に向かった。かなり早い時間だったが、二人とも家に居ても落ち着かなかったからだった。
 千葉から来る大村は大学を卒業した後、希望していた通り出版社に勤め、新聞や雑誌に、やはりイラストを描いていた。その後十年ぐらいして独立し、元の出版社に近い千代田区にあるぼろビルの一室を借りて仕事をしていた。
 交通の便や仕事関係の出版社があるというだけでなく、近くに本屋や学校などが多いのも職業上のメリットだった。だが出版業界が不況で、現在は仕事で知り合った関係者や元寮生の紹介で、何とか仕事を得ていた。
 横浜からは高山忠次がやってくる。彼は小学校の教員だが熱血漢だった。それは入寮してきたときからだった。
 彼は長崎で生まれ、高校は甲子園常連の長崎K高校に進んだ。母子家庭だったので、早く自立して母親を楽にしてあげたいといつもいっていた。
 闘志の塊みたいな男で、160cmちょっとの身長しかなかったが、サードのポジションに食らいついていった。大阪や東京の名門チームから来たのではなく、地元の長崎から甲子園に挑戦した。だがその前に選手層が分厚い集団の中で、レギュラーを勝ち取らなければならなかった。
 レギュラーになれたのかどうか、誰も彼に聞かなかったが名門校で鍛えてきた野球部員としてのプライドだけは捨てていなかった。
 彼の経歴は翔のようなまじめだけが取り柄の人間には想像できない世界だった。だから初めに高山を見たとき、体は大きくないが声がやたらでかくて、なんて存在感があるのだろうと思った。
 荒波にあがいて、己の存在を見失わず、どんなときでも前を向いて倒れていくような力強さを感じた。翔には闘志の塊が服を着て歩いているような圧倒的な存在感があった。
 忖度などという言葉を知らず、何度倒れても起き上がる火の玉小僧は、酔っぱらうと自分のことを、
「おいは……、おいは……」
と話すので、いつのまにかみんなに「おいどん」と呼ばれるようになった。
 寮の組織は多くはない。運営委員会、食堂委員会、文化局の三つだ。
 おおざっぱに分けると、寮の運動方針と実行、点検が運営委員会。食堂における寮生の関わりや食堂で働くおばちゃんたちとのコミュニケーション、寮生の平日の朝・晩の食を扱うのが食堂委員会。寮生の文化全般、つまり精神面でのケアを行うのが文化局だ。文化局といっても運営委員会の事務方ではない独立した組織である。よく分からないが寮の中ではそれぞれきちんと位置付けられていた。
 そのうちの食堂委員会の火の玉小僧がおいどんこと高山忠次だった。その活躍ぶりはまるで食堂委員会のために生まれてきたかのようだった。朝食を摂らない寮生に、苦虫をつぶしたような顔をしていた食堂のおばちゃんたちは、食堂に来たおいどんを見つけると破顔するのである。そして愚痴や不満をぶつけ、雷雨を生んだ。その嵐が去ると清々しい顔をして食堂の片付けを始める。しだいに寮生は目を細めて、おいどんをたのもしく見るようになっていった。
 おいどんは小さいころから女手一つで育ててくれた母親に感謝していた。だからその愛情に応えようと頑張ってきた。親の愛情はわが子の健康が第一である。健康のために朝食を摂るのは当たり前だった。なのに、なのに、なぜ朝食を食べに来ない。汚れのない心のおいどんの方がフード・カルチャーショックを受けていた。
 おいどんが長崎K高校野球部にいたのは伊達ではなった。あまりに男子寮の朝食摂取率が低下したため彼はついに行動を起こした。
 朝、階段ダッシュで「朝食を摂りましょう」と寮生に呼びかけを始めた。女子寮はしっかりと朝食を摂っていた。
 ちなみに寮には男子48人、女子24人がいた。
 男子寮の1階には玄関、食堂、会議室とお風呂があった。4つのコンクリートのロゴブロックを重ねたみたいな4階建てだった。1フロア―には16人おり、4人部屋が2つ、2人部屋が4つ、例えば2階なら201号室と206号室が4人部屋、202号室から205号室は2人部屋になっていた。
 女子寮は1フロアー8人で4人部屋が1つ、2人部屋が2つあった。翔は女子寮に入ったことがないのでそれ以上のことは知らなかった。
 部屋割りは1年生から4年生まで先輩と後輩が組む形で行われていた。といっても空きがなければ入れない。中には大学5年生、いや6年生、もしかして……。といわれている寮生もいたので毎年入寮できる数はきんと決まっていなかった。
 また先輩といえども入室してくる後輩を選ぶことはできない。誰がどうやって決めるのか、入寮の可否と同じで誰もよく知らなかった。大学当局から各々に通知が送られてくるだけだった。謎である。 
 



 

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