見出し画像

学生寮物語

1 突然の訃報
  真夏の容赦ない紫外線が、乾いた土に照りつけている。葉陰のたった一滴の水をも奪いつくすように。
 8月半ばの太陽は伊豆半島の根元にある小さな中学校のグランドや部員たちを、赤銅色に焼き尽くそうとしていた。そのグランドのホームからレフト方向に霊峰富士が仰ぎ見えた。
 霊峰は地上の人々とは対照的に、目を細めながら涼しげな表情で地上を見下ろしていた。その山肌は野鳩のような鈍色で、艶やかな太陽の反射光を湛えていた。
 だがグランドのすぐ西側にある「憩いの森」と呼ばれる小さな公園の林は、既に濃淡の緑黄色を交えて、秋への備えを始めていた。

 「球際だよ、球際!」
 長方形のグランドの南西隅にあるソフトボール場では、黒塗りのノックバットから一人の少女めがけて、次々とボールが打ち出されていた。
「せっかく追いついても、いちいちボールをこぼしていたんじゃしょうがないだろ!」
 ノックと同じように次々と少女に言葉の塊がぶつけられる。
「守備はアウトが取れてはじめて 完成なんだよ!」
ノッカーは最後の「よ」に力を込めて、また三遊間にゴロを打った。
 ショートに抜擢された二年の女子中学生は歯を食いしばって必死にボールに喰らいついていた。身長はあまり高くはなかったが、瞳は大きく見開かれ、その奥には強い意志のようなものがきらめいていた。

 松永翔(かける)は静岡県のN中学校ソフト部の顧問をしていた。
 今年の中体連は現在の二年生エースで戦い、県大会に進出した。だが一回戦で敗れた。
 地区大会の準決勝では、優勝候補相手に自慢の攻撃力で、7点差をひっくり返した。奇跡の逆転優勝といわれた。
 しかし守備力が弱く、攻撃力だけに頼るチームの限界を監督がいちばんよく知っていた。大会が終わった夏休みの練習では早速、新チームの守備力を徹底的に鍛えようと考えていた。
 守備の要のショートには技術だけでなく、前チームに欠けていた勝利への執念を体現できる人柄を望んでいた。それは内に秘めた闘志でなく、みんなに伝わり、チームを鼓舞する強さだ。

 翔は眼光を鋭く光らせ、五十半ばのもう若くはない肉体に鞭打ち、流れ出る汗を拭おうともせずノックを続けていた。野球帽で隠れた短髪はすでに白髪に近いダークグレーだった。
 小一時間ほどの少女との格闘を終え、翔は守備についていた全員に「バックホーム」を指示し、やっとノックを終えた。
 ベンチに戻って、額の汗を拭おうとタオルを探しているとき、携帯の着信履歴が明滅していているのに気がついた。
 翔はいそいでタップし折り返した。
 相手はすぐに出た。
「おう、松永か! 忙しいとこ、すまんなあ」
「だいじょうぶ。三か月ぶりかな」
「そうやなあ」
「そんで用事は、なんやねん」 
 電話の相手は大学の同級生の金城幸夫だった。彼も教員で、大阪の中学校で美術を教えていた。
 彼は電話口で
「おいおい、関西弁になっとるやんけ。ふざけてる場合ちゃうねん。実はな……」
 それは名古屋に住んでいる二年後輩の安岡孝之のことだった。3人ともかつてA大学の寮生だった。
 安岡は数年前に食道癌が見つかり、入退院を繰り返していた。3ヶ月ほど前、翔と金城はそれぞれ夫婦そろって、お見舞いに病院へ行った。その後も金城は奥さん同士が同級で親友だったこともあり、大阪から何度か足を運んでいた。
 その安岡が昨晩、ついに力尽きたという報せだった。忌日は8月23日、名古屋が蒸し暑くなる土曜の朝だった。
 安岡は翔の後の寮長も務めたことがあった。まだ52歳という若さだった。
 二人はとりあえずお通夜に向かうための日時と待ち合わせ場所を決め、電話を切った。

第2話~第21話
https://editor.note.com/notes/nbc66f4595ff4/edit/


#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?