私的幸福論


みなさんは、子供の頃によく親から言われた言葉を覚えていますか?

僕は親によく言われたんです。「1日の時間は24時間で、全人類共通だ!ちゃんと有意義に過ごせ!」って。

でも僕は思うんですよ。
そんなわけないじゃないか。と。

人それぞれ、お仕事だったり、学校だったりあります。だから、そういう時間を除いた、本当に自由につかえる時間こそ自分の本当の1日の時間だと思うんですよ。もちろんこの残りの時間は有意義に使うべきだと思います。

どんな1日を過ごすのか、「嫌々過ごしても1日」、「楽しんで過ごしても1日」です。毎日楽しい人なんていません。でも後者の方が良いのは確実です。自由につかえる時間を、趣味に充てたり、やらなければならない勉強に充てたり、休みたいならお休みに充てればよい。

自由時間”外”の、お仕事中は、もはや1日に含まれてないんですよ。楽しもうが辛かろうが、それは1日の評価に含まない。自由時間が幸せだったらそれで良いんです。


僕はこうやって考えます。
ただ、ひとつ。自由時間を得られない時がありますよね。それは健康的な問題。身体の健康って1番大切なんです。身体が元気じゃないと自由時間も仕事も含め、時間区分がないわけです。

だから、どんなに辛くても、身体が健康なら
それで良いんです。自分で問題を解決できるだけの身体を持ち合わせていることになりますからね。



去年の11月末に大好きだった友人が亡くなった。だいすきだった。別に毎日遊んでいたわけでも連絡をとっていたわけでもないけど、気兼ねなく接してくれて偏見もなくて良い子だった。親御さんもみんな良い人。

親からしたら子どもが何しようが、どんな道に進もうが、健康に元気で生きていてくれたらそれで満足なはずです。

いつどの関係性の人が目の前から消えるかわかりません。いつもの日々、目の前の人と笑い合って過ごせることがどれだけ幸せなことなのか、失ってから気づくんです。なんでかって、それは今は失っていないから。あたりまえです。だから絵画だって、亡くなってから才能が評価された画家がいっぱいいます。過去のこと、歴史があるからこそ、人は評価するんです。でもそれでもなんでも良い、失ってからでも感謝を伝えることが重要です。

人は、自分のためにだけ生きる人生には限界があります。でも、誰かのために生きる人生に限界はありません。自分のためだったら妥協し放題です。でも愛する家族、恋人、友人がいる。その人のためなら自分の限界を突破してでも頑張れる。僕はそう思います。地位も名声も学歴もいらない。理由なんてなんでもいいから、誰かのために生きて、誰かと幸せに過ごして、僕の大好きなみんなが健康に、最高とは言わずとも、最低限の生活を送れることが僕なりの1番の幸せだと最近思います。




今ある日常の小さな幸せに、失う前に気づけたのなら貴方は幸せ者です。大好きな友達にラーメンでも奢ってあげてください。

うそ、僕に奢ってください。

以上、「私的幸福論」




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