36回目の12月30日Vol.2

History 3 VULGARITY KIDS!結成
1984年 前回のVol.1にも書いたが、Moochinとクラスメイトに誘われ加入したSEX PISTOLSのコピーバンド「BODIES」はライブを2回程やったがその後は永くは持たず加入後、半年程で解散となった。
原因はボーカル担当である私のクラスメイトのワンマン主義であった。
「BODIES」解散直後の頃である。
Moochinは酷く傷ついていた。
ボーカル担当だったクラスメイトがバンド解散の原因をMoochinだとある事無い事を周りに吹聴していた。それを間に受けた私のいつもの遊び仲間がMoochinに対して罵詈雑言を浴びせたり、しかも時には暴力なども振るっていた。
※暴力行為については30年以上も前の事なので勝手ながらもう時効という事であえて赤裸々に書かせていただきます。

私はいつもの遊び仲間達に真実を話して事実と違う事、そして誤解を解こうと必死だった。
同時にある事ない事を吹聴したクラスメイトに対し怒りの感情を抑える事が出来ず、ある日私はそのクラスメイトをとある場所に呼び出して彼をボコボコにした。

そんな経緯もあり自ずと私はMoochinと一緒に居る時間が増えていた。たとえ半年ばかりだけど一緒にバンドをやった仲間だし、謂れのない誹謗中傷、ましてや殴られたりとMoochinが気の毒にしか思えなかった。
毎日学校が終わる頃の夕方にはMoochin宅に遊びに行くという事が私の中で日常化していた。
19時頃までMoochin宅で遊んでその後はいつもの「溜まり場」に移動していつもの仲間達と合流して23時頃には家に帰るという毎日を過ごしていた。
そんなルーティンのある日、なんとあの口数が少ないクールなMANZOがMoochin宅に来たのだ。
MANZOらしい口数少ない慰めだったがMoochinにとって大きな慰めになった事は言うまでもない。Moochinが本当に嬉しそうな顔をしてたのは鮮明に覚えてる。

今振り返ってみると実質的にこの時がVULGARITY KIDS!結成の日だったように私には思える。
それは数年後に起きる悲劇という「運命」に急かされるかの如く3人が一緒になった日。
もしこの日3人が同じ場所で一緒にならなかったら、そしてバンドを組まなかったら3人がそれぞれの人生を今も謳歌してたのかもしれない、などという「たら・れば」を私はこの30数年、毎年12月が来ると決まってふと考えてしまう。とはいえ私達3人は「運命」という歯車に逆らう事も出来ず、いや、当時は当然の事ながらそんな「運命」のカウントダウンが始まっている事にも気づきもせずに毎日3人で顔を合わせてるいちに3人の色々な思いが相まって
「3人でバンドやるべ!」
VULGARITY KIDS!が少しずつ動き出すのであった。

History 4 始動
1985年春 その頃私は高2になってすぐに高校を中退し昼間アルバイトをしていた。バンドの結成後の経緯を書かなくてはいけないところだか、それを書く前に私が高校を辞める際のエピソードを少し書き記したいと思う。

学校よりパンクはもちろんパンクファッション、そしてバンドに夢中になった時、学校が私の中で邪魔な存在に感じた。甲子園目指して小学校から中学校と野球をやっていて高校も野球部に所属したが、高校での世界は特待生で野球部にスカウトされてない一般入部の奴などまるでごみ以下の扱いで野球部の練習時間中、ずっと走らされていた。途中吐いても許されずずっと走らされていた。ボールもグローブも持たせてもらえない。そして練習後は毎日先輩から理由も無くリンチを受けていた。もう馬鹿らしくなり野球熱も冷めて早々に野球部を辞めた。
「清く、ひたむきに、美しき高校球児」などという世間が作り上げたイメージなど現実には1ミリも無いのが現実である。野球部を辞めてからはパンク、ハードコア、パンクファッション、そしてバンドに夢中で更には私の中で夢もあった。その傍ら密かに私の中でいつか毎日のようにリンチしてきた野球部の先輩達にいつか絶対に仕返ししてやる、という恨みの気持ちは決して消し去る事が出来なかった。そしてそれは高校中退後実行した。

高校2年に進級してすぐの頃、親にも知らせずに突然、朝のホームルームで担任の先生に
「今日で学校辞めるから」
と伝えその場で学校を去り家出覚悟の心境で制服姿のままいつもの「溜まり場」に居た。
幸いにも「溜まり場」の部屋主は仕事が休みで部屋に居た。
家にも帰りたくなかった。
親とも話したくなかった。
日が暮れた事、「溜まり場」に一本の電話があった。電話の主はMoochinである。
どうやら私の親が心配してMoochinに連絡して事の経緯を話したようだった。余談だが私の両親はMoochinを凄く気に入っていた。
いつもニコニコしていて穏やかな彼が電話口で今まで聞いた事のない口調で
「おいっ‼️テメェ今すぐ帰れ‼️」
「親泣かして何してんだテメェ‼️」
「ブッ飛ばすぞ‼️」
「帰らなかったら今後、俺の家にも絶対に来るな‼️」
「いいな?今すぐ帰れよ‼️」
衝撃だった。普段穏やかな人がキレると本当に怖い典型的事例だった。
当時怖いもの知らずの勢いで勢っていた私でもこれは流石にヤバいと感じ、すぐに家に帰り学校を辞める件を親に説得し親も渋々了解してくれた。
そして私は高校を辞めてすぐに髪型をモヒカンにした。そう、MANZOのモヒカンに憧れるかの如くに。同時にアルバイトもすぐに始めた。
私の実家は理容業を営んでいた。
だから髪を逆立てる為に必要なヘアースプレーは使い放題だった。モヒカン頭にする際も親父が嫌々ながらもカットしてくれた。

かなり前置きが長くなったが、私は昼間アルバイト(髪を立てなければOKだった)をして夕方には原チャリでMoochin宅に行って19時以降はいつもの「溜まり場」に。
その頃MANZOはMoochin宅から数百メートル離れた高校の定時制クラスに通っていた。なので学校が始まる時間直前までMoochin宅で3人でのミーティングやたまにスタジオにリハーサルに入ったりなどを繰り返していた。
それと並行して私達にはバンド名をどうするか、というテーマに結論を出す頃であった。
私は英単語辞書を引っ張り出してカッコいい単語を調べたり、他の2人も色々と考えてたようで3人でいくつかのバンド名候補を出し合った。
最終的に私が考えた
「VULGARITY KIDS!」が採用された。
意味は「ク◯ガキ」である。
VULGARITY KIDS!結成してすぐの頃の私達のバンド形態が当時にしてはちょっと変わった編成だった。
ボーカル MANZO
ギター  Moochin
ドラム  私
という編成で始動した。ギターも弾けるMANZOだったがボーカルだけでやりたいという彼の希望でこのようなバンド編成となった。
今ではこのような編成でやっているアンダーグラウンドシーンのバンドなど編成の内容が違えど国内外に多数存在していてバンドとして立派にスタイルが成り立っている。3ピースバンド、2ピースバンドなど当たり前である。
結成した当初は現在でもイギリスの代表格的なパンクバンド「G.B.H」の曲をコピーしていた。
3人共共通してこのバンドが大好きでMoochin宅で3人で居る時はいつもBGM代わりに「G.B.H」の曲が流れていた。
楽譜など存在するわけもなく音を拾うには耳コピしか方法がなかった。
コピーしたい曲を3人で必死に耳コピしていた。
ちょうどその頃、「G.B.H」のライブビデオが発売された。今まで写真でしか見た事がなかった
のが動く「G.B.H」の姿を映像で見れて私達は興奮しバンドに対しての熱に拍車がかかった。更にはその後程なくして「G.B.H」の初来日公演が豊島公会堂で行われ当然私達3人も観に行った。

生で観るG.B.Hはもう圧巻の一言で本当に素晴らしかった。ライブ終了後はベースのRossと握手する事も出来たて興奮の一夜となった。
その一方でこの初来日公演の時、ステージ前の観客席で太った赤いモヒカン頭の男がもの凄い勢いで暴れるようにノリまくっていた。
その暴れ方は凄まじく同じステージ前の観客席に居た私達にも被害が及んだ。私達3人が指折り数えながら楽しみにしていた初来日公演なのに気分を害された気持ちになったを憶えている。
奇しくも私が後にこの太った赤いモヒカン頭の男とVULGARITY KIDS!解散後、同じバンドメンバーになるとは夢にも思わなかった。
実に苦々しいファーストコンタクトであった。 

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