散歩の物語その2

『踵を返す』



すごく嫌なことがあった。すごくすごく嫌なことがあった。何故あんな場面を見ないといけないの?

「クソだるいな」

そう吐き捨てて、自転車を漕ぐ。秋の始まりと冬の始まりが同時に来たような、なんだかよくわからないこの時期の空気を切り裂いて走る自転車は、体は冷えるが心の中は少し気分が変わる。

心の空気を入れ替えるように私は自転車を走らせた。

「あ、そうだ」

 私はこんな気分の時には決まっていくところがある。今日のは凄くヘビーだったので忘れてしまいそうだったけれど、思い出せた。

私は踵を返し自転車を狭い路地に入れた。

「やっぱりいた」

私の目的はいつものように寝転がっている猫。その猫と触れ合い、笑顔をもらう。私の癒しの存在。猫。

「君はいつもそこにいるね」

そう言いながら頭を撫で、首を撫で、体を撫でる。

この猫、私は『君』と呼んでいる。君は初めて会った時からこのぐらいの時間にはここに佇んでいたり、寝転んでいたりする。

首輪はないが、初めての私でも触ることができたのだから、とても人に慣れている、多分このぐらいの時間にこの近くに住んでいる人が餌をあげているのだろう。

私はそんな、餌付けをしてくれている見知らぬ人に感謝をしつつ、ここで今日あった嫌なことを君に聞いてもらう。

「今日ね、休憩時間にさ、絵梨花にさ、安井がコクったの。それをさ、安井本人がさ、私に見守って欲しいって言うわけ。確かに私と絵梨花は仲いいし、安井も良いやつだけどさ、凄く凄く凄く嫌だった。だってさ、、、いいや、君にも話したくないことはあるわけさ。・・・『勝手に話しておいて』って顔してるけど」

私は勢いよく立ち上がる。君はびっくりしているようだったが、私の心の重りはその勢いに弾き飛ばされるように軽くなっていた。
 

 「で、安井とはどうなったの?」
「え?あ?そうだよ!『貴女』、途中で帰っちゃったじゃん」
「そうだよ『君』。だから結果を教えなさい」

「うーん。保留だね」
「は?保留?」
「そう、保留」

「なんで?」

「『なんで?』って言われても、そうだな、確かに安井はいいやつだよ。いいやつだし、優しいところもある。だけどなぁ。なんかなぁ。なんか違うと言うか」

「違うのに保留?」

「うん、なんか、わからないんだよね。自分の気持ちが」
「ふーん、『君』にしては珍しい」

「そうかな」
「そうだよ、『君』はいつもはっきりとしてるから」

「そうかなぁ?」
「そうだよ」
「そうかぁ??」

そう言って絵梨花は手を上に伸ばし、私のお腹をくすぐった。

「やめてよ」
くすぐったい。絵梨花はその反応を楽しんでいて。さらにくすぐって来た。私も絵梨花も笑っていた。駅前の公園のベンチ。いつも私はここに座って、絵梨花が私の膝を枕にして寝転がっている。

「『貴女』はほんと楽。ずっといてもいい」
「え。・・・あ、うん、私も『君』といる時が一番リラックスできる」

「でしょ?あーあ『貴女』が男なら絶対付き合ってるんだけどなぁ」

「うん。・・・あ、性転換しようか?」

絵梨花はひとしきり笑って。
「それいいかも。・・・でもやっぱりいいや、『貴女』の髭面なんて想像できないし」
「髭生えないかもよ」
「そう言うもんか?・・でもやっぱりいいや、『貴女』からちんこが生えてる想像ができない」

確かに、私も想像はできない。

「じゃあやめるか」
「そうしな」

そうする。そうするけど、それしかないのなら・・・

「何?なんか言った?」
「え?いや、何も言ってないよ」
「あっそ」

私たちはお互いのことを『貴女』と『君』と言い合っている。いつどちらから言い出したのかは忘れてしまったが、それがしっくり来ている。ちなみにあの猫と同じなのは絵梨花があの猫と似ているからだ。それは秘密。


 今日もクソだるい 1日が始まる。朝から曇り空というやつも私のだるさを演出してる。絵梨花に会うためだけに私は学校に行っているようなものだ。
絵梨花さえいれば、私の人生は最強だ。どんなに憂鬱でも一瞬で晴れやかな1日になる。

「なぁ、由奈」

私が、朝、教室で鞄から教科書を机に移している時だった。

「なぁったら!」
安井だ。こいつ、まずは『おはよう』だろう。

「おはよう」
私は少し語気を強めて言った。

「あ、うん、おはよう・・・ごめん。気持ちが急いでしまって、挨拶が疎かだった」
私は心底自己嫌悪に陥る。こう言うやつなのだ。安井というやつは。本当にいいやつなのだ。だから私が辛く当たれば当たるほど、私自身にダメージが返って来る。わかっているのだけれど。わかってはいるのだけど。

「いいよ、で、何?」
「おう、田村とはあれから話したんだろ?」

「あれから?」
「そうだよ」

「『あれから』っていつから?」

「は?だから!・・俺がコクった後からだよ」
『俺がコクった後からだよ』は声が小さかった。

「あぁ話したよ」
「で!何か言ってなかった?」

「いや、別に?」
「は?」

「そうだよ。何も言ってない」
「マジかよ?」

「うん、マジマジ。保留は保留だって」
「マジかぁ。頼むよ、田村、アシストしてくれよ」
「は?なんで私が?」

「俺とお前の仲だろ?」
「そこまでの仲じゃない」

「・・・・確かに。そうかぁ、そりゃそうかぁ」

安井はわかりやすく落ち込んでいた。本当にわかりやすいやつだ。いいやつだよ、安井は、ただ。やっぱり応援はできない。なんで、絵梨花なんだろう?

「なんで、絵梨花なの?」
「は?」
「どうして絵梨花が好きなの?」

「それは・・・何ていうか、絵梨花ちゃんってさ、とても可愛いじゃん。黙ってれば本当にどこのモデルさんかと思うぐらいの可愛いじゃん?でもさ、喋ってみると本当くだらないことも話ができるし、ノリもいいし、何か男みたいにさっぱりしてて、でもさ、そこからもうちょっと話してみるとさ、ちゃんと女の子らしいし、絵梨花ちゃんは絵梨花ちゃんでしっかりと自分の考えを持ってるし。そういうところかな?っていうか、恥ずかし!言わせんな」

「全部言っておいて何を言ってるんだ、お前は。・・・でも確かにわかる。わかりすぎる」

「は?最後なんて言った?」

「いや、なんでもない。安井にはもったいないって言ったんだ」
「何だよそりゃ・・・でもそうかもなぁ」

いちいち落ち込むな。落ち込みたいのはこっちだ。

「わかった。話聞いておくから。落ち込むな」

「本当?ありがとう!アシスト頼むな」
「アシストするとは言ってない」

「は?」
「後、『女の子らしい』って何?今時そんなこと言ってんの?ださ」
「・・・」
私は、私が嫌いだ。

 私と絵梨花はいつもの通り、駅前の公園のベンチに腰掛けた。私はコンビニで買ったホットココアを両手で握り、絵梨花はホットレモンを啜っている。

「見事に曇ってますなぁ」
「ですなぁ」

今日は朝から雲が掛かっていたから、いつもより肌寒かった。

「そろそろここでこう過ごす時間も短くなって来ますなぁ」
「ですなぁ」

「・・・」
「・・・」

「老夫婦か!」
絵梨花の紋切り型の突っ込みが入り、私たちは声を出して笑った。

「ねぇ『君』」
「何?」

「安井のこと。決めた?」
「え?いや、まだだよ」

「そうか、安井ってさ、いいやつだよ、きっとさ、『君』のことを幸せにしてくれると思うよ」

私は心底自分が嫌いになる。今すぐ駅から飛び降りて電車に轢かれてしまいたい。

「は?『貴女』はそれでいいの?」

「・・・」
どういうこと?

「『貴女』は安井のことはいいの?」
「は?」

「安井はいいやつだよ。それは知ってる。だから、それは『貴女』も安井のことを」
「は?私が?安井を?何で?」

「いや、だから、安井はいいやつだから、真面目だし、優しいし、面白いしノリいいし」

「だから私が安井を好きだと?」

「だって仲いいじゃん」

私は気が遠のいていく気がした。確かに気づかれないように、悟られないように自分の気持ちをコントロールして来た。それがこういうことにつながってしまうなんて。そうじゃない、そうじゃなくて、私の気持ちは・・・

「ないない!無いよ。安井?私にとってみれば、安井なんて全然タイプじゃないし、確かにいいやつだから仲良くしてるけど、私のタイプじゃないよ」

「そうなの?『貴女』が何も文句ないなら、安井の気持ち受け入れてみようかな?」

「うん。・・・うん、それがいいよ。安井と絵梨花、きっと上手くいく」
「うん、ありがとう」

私は。心底自分のことが嫌いだ。

「ねぇ、君、聞いてよ」
君は返事はしない。こちらを見てもない。私に気持ちよく撫でられている。構わない。だってもう私が『君』と呼べるのは君しかいない。

「今頃、絵梨花は安井の告白を受け入れて付き合ってるんだろうな。何でかな。私は何で本当のこと言えないかなぁ」

自己嫌悪。

「今頃、絵梨花は安井のあの簡単に想像がつく満面の笑顔を可愛いと思って手を繋いだりしてるんだろうな」

私は私のことが嫌いだ。

「いつか、いつかこっぴどく裏切られればいい。不幸な目に遭えばいい。・・・はぁ。・・・もう、2人で過ごす時間は無くなるのかな。・・・いつか私の存在がいかに大きかったか思い知ればいい、そうだ、思い知ればいいんだ!」

私は心底自分が嫌いだ。

「大っ嫌いだな。私、マジうざいな私。くそうざいよ私。ねぇ君、私はどうすれば良かったのかなぁ。どうすればいいのかなぁ」

君は何も答えてくれない。しばらく私は動かなかった。動いてしまえば現実に引き戻されてしまう。

「・・・私はね、君にだけは言うね。私はね」

相手が猫でもこのことを誰かに言うのは初めてだ。私は深呼吸した。
「え?あ、ちょっと待って」

私の深呼吸が途中なのに君は立ち上がり、歩き出してしまった。

「ちょっと!どこいくの?」

追いかけようとしたけれど君の目線の先を見ると歩みを止めてしまった。

「あ、もう一匹」

君の恋人なのかもう一匹の猫が君の進行方向にいた。
何だ、そうか、いつも恋人を待っていたのか、何だ、君も私から遠ざかっていくのか。

「ニャー」

君は私の方を振り返り一鳴きする。その顔が何だか私を励ましてくれているようで、私を大切に思ってくれているようで、私は笑ってしまった。

「そうだよね。そうだよ!私も行ってくる。ちゃんと気持ち伝えてくる。どうなるかはわからない。全部おしまいかもしれない。・・・それでも行ってくる。私ね、君に似ている子が好きなんだ。もう全部好き。この想いはあいつになんて負けない。全部好きだから、絵梨花が選んだ答えも全部受け入れる。だから行ってくる。ありがとう。君!」

私は、そう言うと踵を返して学校に戻った。


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