散歩の物語その3

『ハザードランプ』

雨、夕暮れの薄暗がり。
車は右折レーンに入り、信号機が変わるのを待つ。
隣に座っている女性が話かける。

「なんか、このレーンと左のレーンで灯っている色んな車のハザードランプってそれぞれリズムが違って、見てて面白いですよね」
僕は心臓が大きくうねる感じがした。その言葉を僕は知っている、いや知っていた。

「うん、そうだね、それぞれのリズムと雨と薄暗がりとでとっても幻想的だよね」
「はい、そうなんですよ」

僕は心臓の鼓動が早くなったのを誤魔化すことができた。そうだと思う。今までだってこのような事が一度も無かった訳ではない。10年の経験値がこのポーカーフェイスを作る術を培ってくれた。

 しばらく僕たちは車を走らせ、少し小洒落たカフェに入った。

「あの、やっぱり私じゃダメですか?」

僕は不意を突かれた。

「え、何がですか?」

「だって何だか壁を感じます。当たり障りないように言葉を選んでますよね?職場でもいつもそうです、仕事してる時はすごく輝いた顔でいるのに誰もいない時とか、何もない時とかの表情がすごく思い詰めたような、すごく落ち込んでいるような。そんな感じがします」

「そうかな、僕はこれが普通だよ」

誤魔化せたはずだ。まさかそんなとこまで気付いてくれているなんて思いもしなかった。

「そうですか。私、なんか残念です」
「・・・」

「だって、私わかるんです。貴方は何かを隠してる」
「なんだってそんな事を言うんだ?僕はこれが普通なんだよ」

「教えてくれませんか?」
僕は少しの時間。長い間考えた。

「誰にだって壁を作ってるその事を・・・」
彼女は言った。僕は覚悟を決めた。

「うん、わかった」
何故だろうか、これまで隠して来た事を彼女に話す気持ちになっていた。

「僕は10年前大切な、大好きな恋人を失ったんだ」
そうやって僕は静かに話し始めた。彼女も静かに聞いてくれている。

「10年前僕は幼稚園で働いていた。この事は知ってるよね?」
「はい、聞きました。給料が安いから辞めたって」
「うん、実はそれは言い訳でさ、、、」

「はい。」
そう言って僕の次の言葉を待っていた。

「うん、話を続けるね。僕は幼稚園で働いていて、彼女はそこへ給食のパンを卸してくれる近所のパン屋さんだったんだ。 

 毎朝、子供が登園する少し前に近隣の幼稚園、保育園、小学校にパンを卸す。ものすごい大量のパンを作っては運ぶ仕事。

 僕は一目惚れだった。彼女が毎朝やってくる度に何かと理由をつけて給食室まで足を運んでね、彼女と挨拶を交した。
 それだけで満足だった。

 彼女もね、『今日は暑いですね』、『今日はちょっと涼しいですね』、何て言ってくれて。

 僕も僕で、『今日は午後から雨が降るらしいですよ』、とか、『そう言えば昨日のパン美味しかったです』って話をして少ない会話をしていた。

 朝なんてのはどちらも忙しいからそのぐらいの言葉のやり取りしか出来なかったんだ。でもねそれで良かった。

 それからしばらく経って彼女が朝に来ない日があった。

 僕はどうしたんだろうと心配したけれど、保育が始まって僕が5歳児の子どもたちとサッカーをしていたら彼女がやってきたんだ。実はパンの発注を間違えたらしくてさ、納入する為に時間が掛かったらしい。

 次の日はこれまで通りの朝に来て、僕に『昨日はすみませんでした』って彼女は謝った。僕は『全然気にしないでください』と。給食の事はほとんどわからないのにね、そう言った。

 彼女は続けて、『昨日の子どもたちとサッカーをしている姿がとても素敵でした』そう言ってくれた。『私は子どもがいない朝の時間にしかここには来ないのでとても新鮮でした』僕はとても嬉しかった。そんな風に見ていてくれているなんてとても嬉しかった。

 僕たちはそれからお互い時間の無い中をやり駆使して会った。
 彼女はとても勉強熱心で。と言うより単にパンが好きだったのだけれど、いろんなパン屋に連れて行ってくれた。
 とても有名なパン屋、地域に根ざした町のパン屋。そのどれも彼女の事を知ることが出来てとても嬉しかった。

 家にいる時は僕は幼稚園で使う教材を作り、彼女はパン焼きの勉強をしていた。そこにあるのは僕の画用紙を切る音や、パソコンをタイプする音。彼女の生地を伸ばす音、オーブンの音。焼けたパンの匂い。それだけしかしなかった。それだけでよかった。他には何も要らなかった」

 ひと思いに僕は話した。彼女は真剣な眼差して聞いていた。少しお茶を飲んだ。彼女も一緒にお茶を飲んだ。

「彼女が倒れたのは数ヶ月後だった。朝、パン屋の店主が配達に来て僕はその事実を知った。僕は急遽休みをもらった。なんかね、園でも公認の仲になっていたから園長からも『行ってあげなさい』って送り出してくれたんだ。
 
 彼女は病院のベットに体を横たえていた。病室に入った僕は彼女の背中を見ていた。彼女に声を掛ける勇気がなくてね、だって彼女の背中は病気に負けてしまいそうで力なく呼吸をしていたから。僕は意を決して声を掛けると彼女は振り向き、少し恥ずかしいような怒ったようなそんな顔を見せてすぐに伏せた」

僕はその時のことを鮮明に思い出してしまって言葉に詰まった。

「大丈夫ですか?もし辛いのなら」

「いや、大丈夫だよ」
「はい、、、」

彼女はしっかりと僕の方を見て話を聞いてくれている。ひどく辛い事を想像させてしまっている。

「彼女は何も言わなかったんだ。
 しばらくして、看護師さんが昼食を運んできてくれた時に『お腹すいたね』と言ったきり、また黙り込んでしまった。
 僕は痺れを切らして聞いたんだ。『どんな病気だったの?』と。彼女は何かを言おうとして僕の方を見た。その瞬間涙が溢れてしまった。

 涙が止まるの待ち、彼女は話してくれた。『私は。ごめんなさい、私は貴方に謝らなければいけない、、、私は、、、癌です。それも初めて発見されたのが3年前。悪性リンパ腫って言うのになって、それで頑張って直したんだけどね、、、2年再発しなかったら完治したと思っていいって言われていたのに、3年目にして再発。私ね、再発する前にいつか話をしなければいけないって思っていたの。私は癌サバイバーだからいつか再発してしまうかもしれない人だから、私に深く入り込まないでって。悲しい思いをして欲しくないから。でも2年発症しなかった事と貴方が優しい人だった事で忘れてしまっていた。私は貴方よりも早く死ぬ可能性が高い人だって。普通の幸せは手に入れることが出来ない人なんだって。私、諦められてたのに、生きることが後少しなら夢も願いも全部捨てられていたのに、何でかな?何でこうなるのかな』

「僕は彼女に何も言うことが出来なかった。彼女の背負ってきたもの、彼女の諦めてきたこと。それを全部思い起こさせてしまったこと。僕には何も言えなかったんだ」

「もういいです。これ以上は聞きたくないです」

彼女はそう言ったけれど僕は止めなかった。どうしてかはわからない、聞いていて欲しいと思ったのだろう。
彼女も納得した表情を見せてそれ以上は何も言わなかった。

「それから闘病生活が始まった。僕は仕事が終われば病室に行き、休日にも病室に行き。
 僕は幼稚園で使う制作物をして彼女はパンに関する本を読んだ。何も変わらなかったんだ。あの時と。
 変わったのは場所だけだった。お互いにこうしようとしたわけではなく、自然にこうなっていた。どこにいようとお互いがどんな状態だろうといつもと変わらない。いつものままの2人でいることが当然だった。
 それが幸せだった。そうだったんだけど。日に日に唇から生きる色が消えていく姿を見ると、僕はそれだけで現実を突きつけられた。だからあんなことを言ってしまった」

 僕は言葉を詰まらせた。思い出してしまう。一番思い出したくないことを。

「どんなことですか?」

彼女が聞いてくれた。心が軽くなった気がした。彼女になら話せると思った。

「うん、それはね、『僕は仕事を辞めるよ。そしてずっと君のそばにいる。君の側で看病をするよ。僕には君が全てだから。1分1秒でも君といることを僕は選ぶ。それで治ったらまた仕事をすればいい』こう言ってしまった。それがダメだった。

 彼女は『私は貴方のことが本当に大事です。だけど、そんな貴方が私の為に自分を犠牲にするのは私には耐えられない。貴方のことを好きになればなるほど貴方は私を大事にしてくれる。だけどね、私は貴方の一生懸命に頑張っている姿が好きなのです。毎日一生懸命掃除をして綺麗な幼稚園で子どもたちを迎えたいって気持ち。
 子ども達と思いっきり遊んで自分が楽しむことで子ども達が心から楽しんでくれるようにしている貴方の気持ち。貴方は『それが保育の仕事だから』って言うでしょうけど、違う。私には分かる。貴方の心根の優しさから出る本当の気持ちだよ。
 一生懸命作り物をして子どもたちの喜ぶ顔や真剣に考える顔を見たいって気持ち。
 そういう一生懸命に仕事に取り組む貴方が好きなのです。それが私の存在でそれを手放さなくてはいけなくなるのなら私はもう貴方と離れます。そうさせて』

 泣きながらそう言った彼女に僕は掛ける言葉が見つからなった。それから数日して彼女は息を引き取った。突然のことだった。いつそうなってもおかしくはないと言われていたのだけれど、いざそうなってしまうと何も心の準備なんて出来ていなかった。

 「一報が入ったのは僕の仕事が終わった後だった。実際に亡くなったのはお昼過ぎだったらしい。彼女が僕に連絡するのはこの時間にして欲しいとお父さんに頼んでいたんだ。最後まで彼女は僕のことを考えてくれていた。ただ、ただね、何も解決が出来ていない。なのに亡くなってしまった」

 僕は言葉を続けるのを止めてしまった。僕は両目に溢れた涙を右手の人差し指で拭ってから少しだけコーヒーを飲んだ。もう冷めてしまったコーヒーが苦味とともに口の渇きを潤してくれた。彼女も一緒にコーヒーを啜っていた。

「それからね僕は仕事を辞めた。引っ越しもした。全く違う環境に身を置いたんだ。彼女の死から逃げるように。いや彼女から逃げるように」

「・・・それは違います」
そう彼女が言ってくれた。

「違います。逃げたんじゃない。ちゃんと向き合ったじゃないですか。それは次に進むために必要なステップだったんですよ」

「うん、ありがとう、、、だけどね。今もこうして彼女の姿が浮かぶ。あの子はまだそこにいる、たまに思ってしまうんだ。『会いたいな』って。
 会ってまた少ない会話と、お互いの事をお互いが感じられる場所で隣り合ってそれぞれに必要な事をしていたいなって。
 だから僕は、こんなんだから。君の気持ちに答えてあげる事ができない。君を傷つけてしまうことになる。心の中にはまだ彼女がいるんだ」

彼女は涙していた。僕は申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、理解してくれると思った。

「わかりました。気持ちは痛いほど伝わりました。でも私、諦めません。諦められません。貴方のその心に残った物一緒に背負わせてください。貴方の気持ちに少しでも癒しが訪れるように私に側に居させて下さい」

「ごめん、さっきの話聞いてた?」

「はい、聞いてました。そして私の事も、もっとよく知って下さい」

何だかその言葉の心強さに僕は参ってしまった。彼女の事でひとつ分かった事がある。

「君は何だか、似てる」
「え?」

「その、優しさと、言葉に宿る『芯』みたいな物?そういう事を言える君は何だか似ている。さっき君の言っていた『ハザードランプが点滅しているのが面白いっ』て話。それ彼女もしてたんだ。なんだろうね、失礼なことだとは思うんだけど。君のことを教えて欲しいと思ったんだ」

「はい、そっちばかり教えて貰いましたもんね。私の話ですね」

「うん、その前にコーヒーお代わりしましょうか?」
「そうですね、しましょう」

そう言って彼女は微笑んだ。僕も笑顔を見せる事ができた。少しずつだろう。僕の心の氷が溶けるのは。その為には彼女と言葉を交わしていけばいい。

 お代わりを店員さんに頼んでふと窓をみた。入店した時より確実に暗くなって更に輝きを増していたハザードランプが点滅していた。

 雨は変わらず降っている。

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