散歩の物語その6

『花の香り』

今年もこの季節がやって来た。そう思える瞬間がある。

いつも歩いている散歩道。微かに鼻腔を突く匂いがする。
その匂いを感じ取ってそこから数メートル歩いた所に黄金色の小さい花がたくさん付いている木がある。どなたかは存じない家の庭に花開いた香り。

私はこの匂いが好きだ。長袖のカーディガンを羽織って出かけようと思う頃に香ってくるこの匂いが。そしてこの場所にあるこの木が。あの人と2人いつも通ったこの道が。

「え?この木?」
「そうそう、この木。これ秋になったらいい匂いするんだ」
「そうだっけ?」
「そうだよ、で!この木、名前なんだっけ?」
「え?知らないよ。僕はその匂いすら知らないんだから」
「嘘でしょ、、、そんなことないでしょ。絶対1回は匂った事あると思うよ」

「そうかぁ?、、、まぁ後2ヶ月もすれば嗅ぐ事ができるんでしょ?」
「うん」

「んならその時に。それよりさぁ、あちぃ。なんかさ、アスファルトから湯気出てない?」
「いや、出てないでしょ」

「全く、沙耶香は冷たいよなぁ、その冷たさで涼みたいですよ」
「は?何言ってんの?そんな事言ってる間に早く買い物に行くよ」

「はいはい、あ、アイス買お」
「おーいいですなぁ」
「ですなぁ」

私たちはいつものように、いつものスーパーへ、いつもの加工された出来合いの食べ物を買いに行く。

 高橋とは去年の12月に出会って8ヶ月。付き合い始めてから4ヶ月目。
彼の事がなんだかよく分かってきたきたような、全くわからないような。
そんな関係性。
お互いを知っていく事が楽しいような苦しいような。

 同棲を始めたのはつい先月、一緒に住んでしまえば家賃も光熱費も半分ずつになるし、意外にも高橋は綺麗好きで掃除を好んでやってれる。
そういう打算が私の中に無かったとは言えない。

綺麗好きには感心していたが『そんなところまで?!』と少しの苛立ちを持っている。
高橋は私には特に何も求めていないような気がする。私が何かをしようとすると「いいよいいよ」と言って何でもしてしまう。でも私が何かをする時には「ありがとう」と本気でそう言う。いい奴なのだろうと思うのだけれど。

「ねぇ、高橋、私達ってさ、どうなんだろうね」
「え、何が?」

「だってさ、高橋は私に何も求めてないじゃん」
「そんなことはないよ。と思うけどね」
「そんなことあるよ。だってさ、昨日だって私が夕飯を作ろうと思ったら『僕がするよ』って言って始めたじゃない」

「え、だってそれは君がゼミの課題に追われているのを知っていたから」
「それはそうだけど、そうだけどさ、、、」

「ごめん、君の気持ちに気づいてあげられなかったね」
「ううん、そうじゃないの、そうじゃないんだけど!」

「じゃあ何?」
「もっと私のこと分かってよ」

「いや、解ろうとしても何も分からないよ。だって僕たちは他人でしょ?自分自身のこともよく分からないのに他人のことなんて分かる訳ないよ」
「何でそんなに冷たく言うの?私はわかりあいたいのに」

「そうなんだね」
そう言って高橋は私を抱きしめた。

「僕は冷たいかな?」
「冷たいよ。。。」
「こうやってても?」
「そういうことじゃなくて」

私はちょっと呆れてちょっと笑った。高橋が可愛いと思った。私は本当に何も分かってなかった。

高橋の唇が私の唇に合わさる。
舌を絡ませながら私を抱きしめる。腕の力を強くしてベッドに押し倒された。

蝉の声がけたたましく聞こえる1Kのマンションで、私はスマホでさっき読んだニュースアプリの『明日から沖縄に台風が上陸する』のニュースを思い出して、『なら明日は風が出てちょっとは涼しいかな』って思っていた。

「ちょっと、カーテン閉めて」
「うん、分かった」

言葉少なく高橋はカーテンを閉める。
戻る道すがらに上半身を裸にする。決して筋肉質という訳ではなく、それでいて余計な贅肉がついていない彼の上半身を見るのは好きだった。
現代社会においてさほどの筋肉は必要ではなく、飽食の時代に過剰なカロリー摂取で贅肉をつけていない理にかなった体をしている。

私はその彼の上半身を見ていた。彼が私の目の前に座り。私の着ているTシャツを捲り上げ下着の上から胸を触る。
片手で収まってしまう大きさしかないのを申し訳なく思う。

そのままキスをしてブラジャーを下げ彼は乳首を触り、口を持っていく。

右手は私の股間に伸び、下着の中に手が入ってくる。指が私の陰毛をかき分け、私は静かに喘ぎ声をあげる。

彼の股間に手を伸ばした。彼は嬉しそうに子どものような表情を見せた。

『今日の夕飯は何を食べようか?暑いし簡単に出来るものがいい。素麺かな?』

 私たちは様々な話し合うべきすれ違いや、諍いをそのままにして、目の前の感情にだけ心を許して溺れていた。

 半袖では肌寒い季節になった。夏の上も下も青々とした生命力に溢れた空気はこの夏に何度も訪れた台風によって吹き飛ばされてしまったように落ち着き返っている。

「何でそんなに怒るの?」
高橋は冷静な声で言った。

「怒るよ!どうして高橋はいつもそうなの?」
「どうしてって言われても、、、」

「私は!浮気をしたことを怒ってるんじゃない。どうしてそのことを私に報告して謝るの?」
「だって。君がいるのに僕は他の子と関係を持ってしまったから。それは謝らないといけないでしょ?」

「そうなんだけど、それはそうなんだけど、、、そっちが黙ってれば私は知らなかったよ。気づかなかったと思う。そうやって過ごせたんだよ、、、」

「ごめん、意味がわからない。だったら僕はバレなければ、浮気をしてもいいってこと?」
「誰もそんなこと言ってないでしょ!」

「そう言ってるように聞こえるよ。僕には」
「どうして、私のことを考えてくれないの?」

「君の事を考えているつもりなんだけどな、、、いや。違うな、違くないけど。僕たちは多分もっと大事なことを話してこないといけなかったんだ。それを怠って今日まで過ごしてきてしまった。だから僕たちはこうなってしまったんだよ」

「そんな事は!そんな事は、、、わかってたよ。いつか話さなくちゃと思ってたよ。でもそれを話してしまうときっと私たちはもう後戻りできない。それも分かってたから、、、」

「うん、僕もそう思う。僕たちは居心地のいいぬるま湯に浸かっていたんだろうね」
「・・・居心地のいいぬるま湯か。私は高橋の現実を見て話をしてくる所が大好きで大嫌いだった」

「うん」

「高橋は?」

「うん、そうだな。こんな僕の事を好きになってくれた事が君を好きになった理由」

「何だそりゃ」

私は何故だか無性に笑いがこみ上げてきた。

1年足らずのこの恋は何だったんだろう。高橋の言葉で私は笑った。ひとしきり笑った。その後。

「お腹空かない?」
「うん、空いた」
そう言って私たちは何度も2人で歩いた道を歩いた。きっとこれで最後になるいつもの道を。

「あ、この匂いだよ」
「ん?」

「ほら前話してた、秋になったら香る花の匂い」
「あぁ、これか。これがそうか」

「うん、ね、いい匂いでしょ?」
「うん、そうだね、、、そう言えば夏に話を聞いた後、名前調べたんだ。えっとねちょっと待ってね」
そう言って彼はスマホのメモアプリを起動してスクロールした。指を止める。

「『金木犀』だって」
「金木犀かぁ」
「うん、金木犀」

今になって思えば調べた時点で名前を伝えない私たちに先は無かったと思う。

彼はその次の日、荷物を纏めて出て行った。その後は大学で少し顔を見たがそこからは全く会う事は無かった。

卒業後彼と共通の知人から高橋は地元に帰って就職した事を聞かされた。
精一杯頑張って欲しい。私も精一杯頑張るつもりだ。

そう思いながら私はたくさんの金木犀の匂いを体の中に入れたくて出来る限りの深呼吸した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?