散歩の物語その4

梅雨入り

「まさに今の私のような日だ」
そう呟いて私は職場までの道を歩く。仕事は単調でつまらない、4年目ということで日々の業務で失敗をすることもなくなっていた。順調に業務をこなし、新しく提案した企画も無事に通っていた。普通これならやりがいが起こり、『よし、次も頑張ろう」と思えるのだろうが私にとっては何も感情が動かない。昔からそうだ、自分にとって利益になることを優先する人間だった。

 幼稚園の発表会では目立ちたくはないけれど、かと言って『〇〇役5人』みたいな人数が多い方が良い訳ではなく『〇〇役2人』みたいな少し目立つものを選んでいたし、小学校からの私の立ち位置は2軍に身を置いていたし、中学校では高校入試の推薦に有利になるからと生徒会に立候補した。生徒会長になることが目的ではなく、『生徒会の中に入れればそれでよし』と思っていたので、まんまと書記の位をもらい得をした。
 高校も勉強に焦るわけでもなく、部活に熱中するわけでもなく、恋愛にうつつを抜かすでもなく、とりあえず器用に生きていたら大学入試に役に立つだろうと思いそこそこ頑張ってきた。
 もちろん大学でもそうで、サークル活動はせずにゼミに入ってゼミの人たちと仲良くし、仲良くなったゼミの友達からの紹介で別の学科の男の子と付き合い色んな経験をした。3年の時には卒業までの単位を取得し、そこからバイトと就職課の人たちから教えてもらった『このボランティアをしていたら就職に役立つ』のボランティアをしながら並行して就職活動。4年の夏頃からはインターンで入れてもらった企業で働きそのまま就職。本当はどんな仕事でも良くて給料が多少いい仕事、ずっと安定して会社経営をしている会社ならなんでもよかった。
 そんなことを就職をする先方にも大学側にも友達にだって話すのは忍びないと思っていたので、方々には『私はこの会社でバリバリ働いて夢は天海祐希や米倉涼子みたいなできる女になりたいの』とユーモアを交えた嘘をついていた。別になんだっていい。
 しかし、だからと言って手を抜いてきたわけではない。この『そこそこの地位』にいるための努力は『そこそこ』ではなく『必死に』してきた。これだけは否定されたくない。

私は目立たず、それでいて苦労はしない今の地位にいるために必死に努力し続けたのだ。

「おはようございます」
4年にもなると後輩からも挨拶をされる
「おはよう」
「坂口先輩、申し訳ないのですが、先輩の企画書の作りかた勉強させていただきたいなと思いまして、できれば後でお時間をいただきたいのですが」
「あぁいいよ〜じゃあお昼前の11時くらいにしようか?」
「あ〜!ありがとうございます!」
「でもリスケあるかもしれないから、そうなったら社内チャットで連絡するね」
「はい!わかりました」

 最近はこういう教えることも増えてきた。しかし私の心は弾まない。
今日の気候のように他者に対しては清々しく朗らかで、明朗快活というやつでいるが心の中はジメジメしていて今にも雨が降りそうなように曇っている。これが私だ。


「今日、飲みに行かない?」
「柴田、いいの?今こっちにきて」
「いいよ、大丈夫うちの部署フットワーク軽いから」
「あ〜そう」
「で、いくよね。予約取っちゃうよ」
柴田は強引だ。でも私のような心の奥では他人を信用していない人にはそんな強引さが救いにもなっている。

「お待たせしました〜」
黒いTシャツを着た小太りの店員さんが揚げ物を運んできてくれた。
私たちはそれを食べながら会社の愚痴を肴にしてビールを啜る。
奥の方が騒がしい。居酒屋なんだからそんなことは気にしないのだが。
「でもさぁ私はもうちょっと評価されてもいいと思うんだよね」
柴田が愚痴をこぼしている。
「うんうん、そうだね」
「うちの会社、『女性躍進』とか言ってるくせに幹部に女性はいないんだよ。ふざけんなよ、と言うか『女性躍進』と言う言葉自体がジェンダーバイアスかかってるんだっつうの!」
「うんうん、そうだね」
「ちょっとさっきから坂口は何も思わないの?」
何も思わないわけではないが、いつも女性だからと言うことで後回しにされたり、変な校則を押し付けられてきたり、『そんなもんだよな』と言うことで納得していたし、そもそも私は目立ちたくはない、もし私が女性であることで高い場所に行くことはできなくても、そこから何段か下の中間より少し上くらいの場所にいられればそれでいい。
「そんなもんだよとか思ってない?」
柴田は時折鋭い。
「思ってないよ、思ってないけどさ、仕方ないんじゃないかな」
「仕方なくない!今に見てろよ」
たぶんこういう人がこの世界を変えていくのだろう。それは楽しみではあるし、待ち遠しい。私にはできないのでやって行ってほしい。

「そういえば聞いた?」
「え?なんですか?」
同じ部署の男性の方が私に話しかけてきた。ごめん、あまり興味がないので他人の名前がスッと出てこない。そいうか覚えてもいない。
「柴田さん、部署から外れて、ショックで休んでるんだって」
「はぁ?それどういうこと?」
「ごめん、柴田さんと仲良さそうだったからてっきり理由を知っていると思ってた」
「ごめん、休んでること自体知らない」
「そうか、ごめんね」
「いや、こちらこそ」
そう言って男の方は席に戻って行った。『なぜ?柴田がを外れる?そしてなぜ休んでいる?』
 頭がふわふわとして午前中は仕事にならなかった。柴田にメッセージを送っても返信がこない。

 昼休みになった。久しぶりに仕事でミスをした。落ち込んだ。

「聞いた?柴田さん、山田部長に楯突いたらしいよ」
「あ〜らしいね、産休明けの中村さんのことでしょ?」
「そうそう、この会社なんだからそうなることなんて想像つくでしょ、なのにねぇ」

衝撃だった。何故みんなは知っている?

「ちょっと、すみません、詳しく教えてもらえますか!」
私は知らなければならない。そう思った。

ことの顛末はこういうことだ。
先月産休・育休から開けた柴田の隣の部署の中村さんという方が、お子さんが発熱して会社を早退したり、休んだりが続き、産休前のポジションは今の状況じゃ難しいので半ば強制的に(多分、同意は取らざるを得ない形でとってはいるのだろう)ポジションを外れて別の部署に異動することになったらしい。
それに対して柴田が怒り、山田部長に直訴したそうだ。

柴田らしいといえばそうだが。
そして柴田は楯突いたことで、部署内の輪を乱すという理由で所属部署を外れるように言われる。それにショックを受けて休んでいるということだ。

 まさにこれは全てにおいてハラスメントに当たるのだが、柴田ほど人間でも自分の身に起きてしまえばダメージを受けてしまい。休みをとっているとのことだった。

思わず聞いてしまったがここまで知った私に何ができるというのだろう。野次馬心で話を聞いたわけでは決してない。柴田のことだから聞いた。これは間違いない。でも果たして、私に何ができるのだろうか。

何日経っても連絡は来なかった。
その日は梅雨末期の大雨で朝から電車が止まっていたり、どこそこの県のどこそこという道路が冠水したりと慌ただしいニュースがスマホからもラジオからも流れていた。

「なんで言ってくれなかったの?」
「うぅん」

柴田から連絡が来た。午前中に雨は過ぎ去り、空は青空とは行かないまでも一時の静けさを見せていた。そんな曇り空を会社の窓から眺めている時だった。一通のメッセージが
『連絡遅れてごめん、今日飲みに行かない?』と。

「この数週間私はずっと心配してたんだよ」
「うん」

「何があったのか、どうしていたのか、ちゃんと聞きたいよ」
「うん」

「なぜ何も言わない?」
「まずは、多分あの会社のことだから噂は聞いてるんじゃない?」

「聞いてるよ、柴田が声を上げたこと、そのせいで不当な人事異動をさせられたこと」
「そうそう、そうなんだよね」
「どうして、そんなことしたの?」

私はこの数週間考えていた。柴田の性格上そうするのはわかっていたのだが、柴田ほどの人が自分の身を守れない程のことをするとも思えなかった。

「気づいたんだよ」
「何に?」
「うん、多分、私たちはずっとこのままなんだって」
「え?」
「坂口は多分わからないだろうね、このままで何が悪いの?って思ってると思う」
「・・・その通りだよ」
「それだよ。多分、私たちは変わらない。変化はしていっているようだけど、外側だけが変わって、内側は何も変わらない」
「変わらないことも大切なんじゃないの?」
「大切だよ、でもね、きっとこれからうちの会社だって女性役員は増えていくと思うし、女性が当たり前にみんなを引っ張ることができるようになる。でもそれってさ外側なんだよ、内側にいる人間の気持ちは変わらない。寧ろ『お前がいなきゃ』なんてって言われるかもしれない」
「うん」
「私の噂を聞いたのなら半分は説明しなくてもいいと思う」
「半分?」
「そ、半分、残りを話すよ」

私は固唾を飲んで柴田の言葉を待った。

「私、中村さん、あ、産休明けの人ね」
「知ってるよ」
「そうだったか、てっきり坂口は他人に興味はないかと思ってた」

少し正解。産休明けの人がいることは知っていたが、その人が『中村さん』であることはこの度のことがあるまで知らなかったし、この度のことが無ければ多分ずっと知らないままでいただろう。

「中村さんと話をしたのね、そしたら復職することはずっと希望だったって、でも実際はそんなに簡単なことじゃなくて、旦那さんに反対されてたらしい」
「そうなの?」
「うん、『育児はどうするんだ?』『家事はどうするんだ?』って」
「そんなことって」
「そう、そんなことは協力してすればいいのよ、育児や家事を母がしないといけない理由なんてない。一緒にすればいい」
「うん」
「でも旦那さんは、『俺もうやってるよね?仕事もして育児も手伝って、家事も手伝って、これでお前が働きに出たら、もっと負担になるよな』ってでも中村さんから言ってみれば育児なんて帰ってきて少し遊ぶ相手をするだけだし、金曜日は遅くまで仕事やら飲み会やらで帰ってこないし、家事もゴミ捨てをお願いしても必ず三角コーナーの生ごみ捨てるの忘れてるし、新しいゴミ袋を取り付けてないし、できてないことが多い、その尻拭いは私の仕事で、途中までやられていると自分のルーティーンワークの途中からやらなきゃいけないからストレスが溜まると。だったら夫の言う通り、このまま復職せずに家庭に入ることの方がいいのかもしれない、でも夫の稼ぎだけじゃギリギリの生活をずっと続けていかなくちゃならないし、それに・・・」
「それに?」
「仕事がしたいんだって、あの会社に中村さんは大学生の頃から憧れていて、絶対ここで働きたいと努力してきて、コミュニケーションは苦手だったけど一生懸命学生時代に努力して努力して掴んだ仕事だったんだって」

私はそんな会社に入れるから入ったのだ。ひどく申し訳ない気持ちになる。そもそも『ひどく申し訳ない気持ち』になること自体、ひどく相手を傷つけている。

「なのに、結婚をして、子どもを産んで、それは私も望んでいたことだからそこに何も文句は言わない。だけれど、そうやって子どもができることで自分の強く抱いて実現させた夢を諦めてしまわなければならないと思った時。『なんで子どもなんて産んでしまったんだろう』って思ったんだって」

「そんなこと無いよ!それは間違ってる」
私は心の奥底からそう思った。

「うん、私もそう思う。でも実際そうなんだよ、私たちは結婚もしてないし子どもなんていないけど、多分私も中村さんと同じ境遇ならそう思っていたかもしれない」

私にはわからない。子どもを持つなんて考えたこともなかったし、結婚願望なんてそもそも無い。

「だから中村さんは旦那さんに条件をつけて復職することを認めてもらえた」
「どんな?」

「『夫には今まで通りの生活をしてくれていいから、今の分量の育児や家事をしてくれればいいから』って」
「そんなの中村さんが一方的に負担を抱えるってことじゃん」
「そ、だから子どもが発熱したら、迎えにいくために早退したり休んだりしたし、保育園へのお迎えの時間に遅れないように、どれだけ部署内が大変でも定時で帰ってたし」
「え。私たちの会社ってそういうことフォローする体制ないの?」
「あるよ、でもさっきの話、外側だけ整ってても内側がダメなの」
「帰ってもいいけど、帰ると同僚からの評価が下がる」
「そう、別に同僚から嫌な目で見られようが、そう言うことを理由に早退したり、休んだりは社内の評定には影響させることはできないからいいんだけど、やっぱり精神的にきついよね」

「だから私は言ったんだ。チームを離れてみて、より働きやすい部署で働くことはどうなのって?」
「え?」
聞いて話とは逆だ。

「『それしか無いよね』って言ってた。中村さんもそう思っていたんだって。でも認めたく無いって」
「そりゃそうでしょ、そんなこと言うの酷いと思う」
「うん、私もそう思う。でも中村さんはそうした。そしたら人事は『そんなこと言わないで頑張ってよ』って他の部署はいま人手が足りてるから異動できる場所が無いって。多分、そういう育児を頑張っている社員を異動させたら、どこかしらかから人事部が何か言われるんじゃない?知らないけど」
「そんなことって」
「もう、私には疲れ切った中村さんの姿が見ていられなくって」
「だから、柴田が休んで、その穴を中村さんに任せようとしたの?」
「そう」
「でも柴田の仕事だって大変な分類じゃない」
「うんそう、でもうちのチーム優秀だし、理解あるから」
「そんな人任せな」
「ごめんて、でもね、会社に不満を持っていたのは事実だし、この際、言ってやろうと。で、怒られてまんまと部署異動を命じられて、今私は有給消化中」
「はぁ?」
「このまま辞めようかなと思っている」
「は?なんで辞めるの?」
「もういいかなって、外側だけ取り繕っているのって」
「辞めてどうするの」
「自分でやってみようと思う。で、今日は坂口を誘いにきた」
「は?」
「坂口一緒に会社やらない?」

私は全く視界が真っ白になって、何も考えられなくなった。
会社やらない?ということは会社を起こして一から仕事していくってことだよね。
うまくいかなかったら?今より収入が減るのは当然でしょ。

「ごめん、考えさせて」
私はそういうことだけで精一杯だった。

「もちろん、考えてみてよ」
眩しい、本当に眩しい、柴田の見ている世界はあまりにも光り輝いている。

「本日、関東地方で梅雨が明けました」
ラジオをただ流している朝。
顔を洗って、歯を磨いて、朝食を食べて、
そんな中で聞く余裕もないラジオをいつもつけている。

「そうか梅雨明けか」
そのニュースだけは頭に入ってきた。難しい経済のニュースや、私には到底関係あると思えないアメリカの大統領選のニュースは一切頭に入ってこないけど。

「今年も暑くなりそうだなぁ」
レースカーテンを開けて外を見てみる。もくもくと入道雲が立ち込めている。まさに夏だ。
「おっと、こんなことしてる場合じゃない」
私は急いで着替えをしていつも通り会社に向かう。

柴田の誘いは断った。
柴田の行く先に私は必要じゃない。パートナーがいるというのならいくらでも柴田は出会えるだろう。
 いや、そうじゃないな、私はどうしても今の自分を捨てたくなかった。今のそこそこで、それでいてつまらない生活を捨てたくないのだ。いつか後悔するかもしれない、いつか私も中村さんのような事態が起こるかもしれない。

 中村さんは仕事がゆっくりになったおかげで早退も休みも定時退社もしやすくなっている。しかし、家庭の状況は変わってないそうだ。噂の話なので本当かどうかは知らない。
 
 柴田は変わってきていると言っていたが、私はどうなのだろう。なにも変わってない気がする。ただ、梅雨に入り、梅雨は明けた。夏本番が来る。
 今日も後輩のプレゼン資料の作成のアドバイザーとして指導することが決まっている。私を慕ってくれる後輩がいる。それは嬉しいことなのだと思う。それくらいで私はいい。自分で会社を起こしてバリバリ働くなんて想像もつかない。

 柴田のこともまだわからない。柴田のこれからも始まったばかりだ。
私にできることは柴田のこれからが梅雨明けした今日の空のように澄み渡って晴れ渡ってくれればいいと願うことだ。

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