重陽物語 第2夜 金南俊の虎退治

第二夜 金南俊の虎退治


 赤茶色の土を踏みながら、ナムジュンはなだらかな山道を登っていた。

 灌木に挟まれた山道の上の青い空を、初秋の乾いた風が渡っている。

 ナムジュンは汗ばむ首筋を大きな手のひらで拭きながら、ぶつぶつと一人何かを唱えていた。

「小さな蟹が歩いている……違うな……小さな蟹が這っている……」

 ナムジュンは、山の麓で見かけた小さな蟹の姿を詩にしようとしてさっきから頭を悩ませていた。

「あ!」

 突然、ナムジュンの足が止まった。ぽかんと口を開いた顔がみるみるうちに青ざめていく。

「失くした……」

 そう呟くが早いか、ナムジュンは踵を返して山道を駆け上って行った。


――仁旺山には虎が出るぞ

 仁旺山の麓の茶店で饅頭を出してくれたオヤジは、丸腰で山に入ろうとしているナムジュンに声をかけた。

「虎ですか?」

 饅頭に添えられた温かい白湯を手に取ってナムジュンは店のオヤジを見上げた。

「そうだ。昨日も一人食われた。お前、その恰好で仁旺山に入るのか?」

 オヤジが呆れた声を出す。

 頭を巡らすと、周りで一休みしている旅人たちは、腰に鎌や刀をぶら下げている。

「あー」

 感心して眺めているナムジュンに、オヤジは店の裏から持ってきた錆びた槍を突き付けて言ったのだ。

「悪いことは言わねえから持って行きな。また、ここを通る時に返してくれればいい」

 ナムジュンは丁寧に礼を言い、必ず返すと約束して長槍を受け取った。

 ところが、その槍をどこかに置いて来てしまったのだ。

 

 ナムジュンはポリポリとこめかみを搔きながら乾いた道を戻る。六尺近いナムジュンの背丈より高くずっしりとした槍をどこに置いてきたか全く見当がつかない。

「アー、ヤー……どこに置いてきたんだ……」

 樹木が開けて眼前に青々とした原っぱが広がった。

 ついさっき、ナムジュンはここで草の上に寝転がって空を飛ぶ雲雀を眺めていたのだった。

 草むらの間に、錆びた槍の赤い柄が見えた。

「ヤー、あんなところに」

 腰を屈めて拾おうとした時、目の前の草むらが揺れて厳かな足音がした。顔を上げると、すぐそこにナムジュンの顔の三倍はあるかと思われる巨大な虎の頭があった。黄色い毛は逆立っていて、二つの小さな目は確実にナムジュンを捕らえている。

「ぐるるるる」

虎は臓腑が縮みあがるような唸り声をあげた。

「わぁぁぁ!」

ナムジュンは無我夢中で拳を振り上げた。

太い巨木のような脚が顔面にかかり、「やられた!」と思った途端、拳が虎の頬に命中した。虎は勢いを失って恨めしそうに喉を鳴らすと、のっそりと踵を返して草むらの中に消えて行った。

「わあ……」

 ナムジュンはポカンと口を開けて、拳を握りしめたまま虎の消えた草むらを見つめていた。虎を殴ったことが信じられずに、何度も目をパチパチさせた。

「おーい! 旅の人が素手で人食い虎をやっつけたぞ!」

 振り返ると、素朴な着物を着た人々がナムジュンめがけて集まって来ていた。一番最初に到着した男が、呆然としているナムジュンの手を握りしめて言った。

「俺たちは仁旺山の村のもんです。人食い虎が村を襲って困ってたんだ。やっつけてくれてありがとうございます!」

 男は握ったナムジュンの手をぶんぶんと振った。

 ナムジュンは村人たちに取り囲まれるようにして、仁旺山の山腹にある村に連れて行かれた。

 村の中央にある瓦葺の立派な家の中には、食いきれないほどの酒とご馳走が用意されていた。

 まん丸い腹をした肥った男がその前に立って、連れてこられたナムジュンを出迎えた。

「よくぞ人食い虎を退治してくださいました。私は村長のパンという者です。どうぞご馳走を食べて行ってください」

パンと名乗った村長は質素な身なりの村人たちとは違い、都の貴人のようなパリッとした韓服を着ている。その藤色の生地が艶やかな絹だったので、ナムジュンは目を細めた。

パン村長はナムジュンを上座に座らせると、その横にどっこいしょと腰をかけて盃を勧めた。

「あの……僕は虎をやっつけたわけじゃないんですが……」

「聞きましたよ。素手であの虎を殴ったんですって? あの虎は夜な夜な村に現れては、家畜も人も見境なく襲うので困り果てていたのです。寒村ですのでつまらぬ料理しか出せませんが、どうぞ召し上がって行ってください」

 そう言ってパンが手のひらに乗せた盃は見事な高麗青磁の盃で、ナムジュンは思わずため息を吐いた。注がれたにごり酒もすっきりとした辛さで上質だ。

「なかなかいい盃ですね。名のある人の作ですか?」

「陶器にご興味がおありですか? それならもっとお見せしましょう」

 村長は、奥から自分のコレクションだという陶器や掛け軸を次々と持って来させてはナムジュンに見せた。どれもこれも都の貴族の屋敷にあっても不思議ではない逸品である。

 山奥の村によくもこんな美術品が溢れているものだと感心して眺めているうちに酔いが回って、ナムジュンはうつらうつらと舟を漕いでいた。


 ぼんやりと霞む目を擦ると、いくつもの顔がナムジュンを覗き込んでいた。

その中に一際、巨大なパン村長の顔があった。ふかしたての饅頭のような村長の顔は、さっきの歓待の時とは違って殺気立っている。

「また虎が出た」

目を瞬くナムジュンに村長が低い声で言った。

「今度は虎を仕留めろ。それまでは村を出ることはならん」

「仕留める……?」

「村のご馳走を飲み食いしただろう。その分、村のために働け。三日以内に虎を仕留めなければ、お前の命は無いものと思え」

「そんなのめちゃくちゃだ!」

 立ち上がろうとしたナムジュンの肩を、屈強な村男たちが取り押さえた。


             *


 ユンギは瓢箪を傾けて酒をあおった。

 目の前には、何だか奇妙な形の盆栽がある。

それ以外には、家財道具らしい物は一切見当たらない。

「そっけねえ部屋だな」

 ユンギは呟いて、膝の上に置いた本をぱらぱらと開いた。ナムジュンから貸してほしいと頼まれていた本を持って来てやったのに、肝心の家の主がいない。少ししたら返って来るだろうと先刻から酒を飲んで待っているのだが、ナムジュンは一向に帰って来ない。

 塵ひとつ落ちていない生活臭のしない部屋は、なんだか神社仏閣のようで尻がむずむずする。

「あいつ、盆栽とにらめっこして飯食ってるのかよ……」

ユンギ本を閉じて独り言ちた時、ちりんと表戸の風鈴が鳴る音がした。

ようやく帰って来たと振り返ったユンギの目の前に、ホソクが踊るような足取りで飛び込んできた。

「ナムジュニ! 見てよ! 新しい舞ができた!」

 ホソクは、座ってポカンと見上げているユンギを見つけて目を瞬いた。

「なんでユンギヒョンがいるんですか?」

「それは俺のセリフだ」

 ホソクが板の間の上で小さく足踏みをする。

「じゃあ、ユンギヒョンでいいや。踊り見てくださいよ」

「俺でいいやって何よ? 座れよ。そのうち帰って来るだろ」

 ユンギが座るように床を叩いたので、ホソクは「せっかく舞ができたのに……」とぶつぶつ呟きながら腰掛けた。


 陽が高くなってもナムジュンは戻って来なかった。

 ようやく、またちりんと表戸の風鈴が鳴って振り返った二人の前に老婆が立っていた。近くの住民らしい老婆は、洗濯物を入れた籠を抱えて不思議そうに二人を見て言った。

「ここの人は三日前からいないよ」

「三日!?」

 素っ頓狂な声を上げる二人に、老婆は言った。

「詩を作りに仁旺山に行くって言ってたけど、おかしいねえ。行って帰って来るのに三日もかかるような山じゃないのにねえ」


            *


「おーい! ナムジュニ! どこだ?」

 ユンギは叫ぶと、両手を膝の上に付いて荒い息を吐いた。

酒を飲んだ体に山道はこたえる。

「あいつ、なんで山なんかに登ったんだよ」 

 舌打ちをするユンギに、まぶしい笑みを浮かべたホソクが言った。

「まあまあ。それより、あの人にナムジュニを見かけなかったか訊いてみましょうよ」

 山の上から薪を背負った男が降りて来るのが見えた。

 ホソクが朗らかな微笑を浮かべて男に近づいた。

「あの、この山で若い男を見かけませんでしたか? 僕らくらいの年齢で、六尺も背があって、胸板が厚くて……」

「一人でぶつぶつ詩を口ずさみながら歩いてる変な奴です」

 ユンギがホソクの横から口を挟む。

 それを聞くと、男は思い当った顔で頷いた。

「それなら、村に来た虎退治の先生だ」

「虎退治の先生?」

 声を合わせる二人に、男は案内してやるからついて来いと言った。

            *


「虎……虎……」

 腕を組みながら歩くナムジュンは、さっきから虎、虎と呟くばかりでさっぱり妙案が浮かばずにいた。虎を素手で殴ったのは偶然であり、再び人食い虎と鉢合わせたからといって同じように退治できるとは限らない。

足を止めて振り返ると、村の男たちが鎌や槍を持ってついて来ているのが見えた。

 ナムジュンが村から逃げ出さないように見張っているのである。

「はあ……」 

 大きなため息を落として、ナムジュンは頭を掻きむしった。

 顔を上げると、道の向こうから薪を背負った男を先頭に、三人の人影が近づいて来るのが見える。

「ユンギヒョン! ホビ!」

 ナムジュンはホッと表情を緩めて、薪を背負った男の後ろの二人に向かって駆け出した。


「こんな山奥で何してるの?」

 ホソクに尋ねられて、ナムジュンは茶店で借りた槍を失くしたところから虎退治をしなければいけなくなった経緯を説明した。ナムジュンの後ろに控えている鎌や槍を持った村人たちを見て、ユンギとホビの顔が引き攣った。

「それで、槍はあったの?」

「うん」

「どこに?」

 ナムジュンは頭をぼりぼり掻きながら見張りの男の一人を振り返った。

 男の手には、男の頭より高く突き出ている長い槍が握られている。

 ホソクのほっそりとした顔が青ざめた。

「なんであんな大きな物失くすの! 不注意すぎるでしょ!」

「まあまあ」

 ユンギがその肩を叩いて言った。

「とにかく、虎を退治すればナムジュニは助かるんだ。俺にいい案がある。行くぞ」

 ユンギはホソクの肩を抱きかかえるようにして歩き出した。


 村外れに広い野があった。

 その真ん中に、腕や腰から鶏肉の塊をぶら下げたホソクが立っている。

「ねえ、ヤダよ。生臭いよ。気持ち悪いよ」

 青白い顔を引き攣らせて振り返るホソクに、離れたところからユンギが言った。

「肉を手足に付けて踊れば、匂いが風に乗って流れる。それを嗅ぎつけて虎が出てきたところを槍で突くんだ」

「そんなことしたら、僕が食べられちゃうじゃないですか」

「新作の舞を見てほしいっつってただろ。しっかり踊れ」

「レッツゴー!」

 隣で槍を掲げるナムジュンの尻をユンギが蹴った。

「お前ももっと前に出て槍をかまえろ」

 おずおずとナムジュンが槍を持ってホソクの側に立つと、ユンギは背負っていた筝を草の上に置いてぽろん、ぽろんと爪はじき始めた。


 ダナナナ

 ダナナナ

 ダナナナ

 

 ホソクは青ざめた顔に泣きべそをかきながら踊り始めた。生肉がべちゃべちゃと着物を濡らし、あまりの気持ち悪さにホソクは泣き声を上げる。

「やめようよ……怖いよ……」

「ナムジュナが槍を持ってるから大丈夫だ」

 ナムジュンが不器用そうな手つきで槍を構えるのを見て、ホソクの顔がますます引き攣った。

 その時、林の向こうから低く身の毛もよだつような咆哮がひとつ聞こえた。哀し気な獣の声はものすごい早さで近づいて来たかと思うと、やがて野の端に巨大な虎が現れた。

虎はホソクに向かって、ゾッとするような声で吠えると巨体を躍らせて走り出した。

「わああああ!」

 ホソクが顔を引き攣らせて駆け出した。ナムジュンも槍を放り投げてホソクに続く。

 虎がものすごい勢いで迫って来た。

「やべ!」

 ユンギも筝を抱きかかえて一目散に逃げだした。


 身の凍るような咆哮に追い立てられながら、三人は生きた心地もしないままに走り続けた。走って走ってようやく池のほとりで立ち止まって振り返ると、虎はもう追って来ない。

 三人は、草の上に体を投げ出して荒い呼吸を整えた。

呼吸が落ち着くと、ホソクが泣きべそをかきはじめた。

「ひどいよ。ユンギヒョン」

「泣くなよ……俺が悪かったって」

 ユンギがホソクの頭を撫でてやる。

 ナムジュンは厚い胸板を上下させて、草の上に寝っ転がって空を見上げた。

 

 青い空の上を秋の薄い雲が流れている。ちぎれる雲が虎の模様に見えて、ナムジュンは大きな体をぶるりと震わせた。

 その時、湖面に垂れる柳が揺れて上質な白檀の香が流れてきた。

「ヤー! こんなところにいたのか」

 柳の葉を掻き分けて、ぽってりとした桜桃のような赤い唇が微笑む。

 突如現れた長身の人影に、三人は飛び上がって駆け寄った。

「ジンヒョン!」

 ソクジンは柳の葉陰から出て来ると、袖の中からたっぷりとした葡萄の房を取り出した。

「ナムジュナ。葡萄を持って行ってやったのに家にいないから探しに来たんだぞ。ユンギヤとホビも一緒だったのか」

 駆け寄った三人は口ぐちに虎退治のあらましをソクジンに語った。

 泣きべそをかきながらユンギの仕打ちを訴えるホソクの傍らで、やっぱりジンヒョンは頼りになるとナムジュンは思った。ジンヒョンは名月のような玲瓏たる美人なのに、誰よりも芯の通った強さを持っている。

広い肩に縋りつくようにして喋る弟たちに、「葡萄でも食いながら考えよう」と言ってソクジンは草の上に腰をおろした。


 四人はホソクがぶら下げていた鶏肉を焼き、ソクジンの葡萄で喉を潤した。

 虎に追われて散り散りになっていた見張りの村人たちがいつの間にか戻って来て、遠巻きに四人の食事を見守っている。その真ん中にでっぷりと肥ったパン村長の巨体が見える。

 ユンギが見張りの村人たちを一瞥して、忌々しそうに肉を齧った。

「クソ、まだ見張ってやがる。ヒョン、人間はヒョンが微笑むのをみたら恋焦がれて死んでしまうんだろ? あの村長の前で笑ってみてよ」

「ジンヒョンに無用な殺人をさせるわけにはいきませんよ」

 ナムジュンが首を振る。

「あんな肉まんみたいな奴に恋焦がれられるのはごめんだ」

 上向いた唇に葡萄の実を当てて、ソクジンが素っ気ない声で言う。

「だけど、このままじゃ村から出れませんよ。あの虎を退治するなんて無茶だよ」

 ホソクがまた泣き声を出した。

 ソクジンが葡萄の汁のついた唇を指でぬぐって言った。

「大丈夫だ。僕にいい考えがある」

「でもすっごく大きくて足の速い虎なんですよ」

「虎を倒そうとするからいけないんだ。虎を倒さず村を出よう」

 ソクジンは弟たちに頭を寄せるように手招きすると、村人たちに聞こえないように話しはじめた。


           *

 


 パン村長の屋敷の裏門には、槍を持った二人の男が立っていた。男たちは空腹のあまり青白い顔をして粗末な着物から痩せ細った手足を出している。人食い虎のために満足な農耕のできないこの村では、村長以外の村人はみんな痩せて腹を空かせているのだった。

「おーい! 虎が出たぞ! 手伝ってくれ!」

 道の向こうで声がした。

見ると、“虎退治の先生”と野原で踊っていた二人が手を振りながら叫んでいる。

「虎が出やがった!」

門番たちは顔を見合わせてうなずくと駆け出した。


門番たちの姿が見えなくなると、屋敷の角からソクジンとナムジュンが顔を覗かせた。

ナムジュンを見張っていた村人たちもいつの間にか姿を消していた。おそらく、ユンギとホソクの声を聞いて虎退治に加勢しようと走って行ったのだろう。

ソクジンとナムジュンは、誰も見ている者がいないことを確認すると、素早く屋敷の門に滑り込んだ。


門内には山奥の寒村とは思えない立派な建物が並んでいた。

二人は身を低く屈めながら窓の中を覗いて回り、とりわけ大きな建物の前で足を止めた。

「ここだ。ナムジュナ」

 ソクジンが耳元で囁く。

 ナムジュンが覗いてみると、窓の中はシンとして薄暗く物置のようだ。

ソクジンは長身を屈めて窓の中に潜り込むと、ナムジュンの手を取って窓によじ登るのを助けてやった。

 足音を忍ばせて床に着地したナムジュンは、室内を見回して感嘆の声を漏らした。

「わあ……!」

 部屋には壺や漆器、掛け軸などの高価な美術品が詰め込まれていたのだ。

「ジンヒョン……すごいですよ! 都でも見られないようなすごい美術品ばかりです」

「ヤー、これもすごいのか?」

 ソクジンが茶色いかりんとうのような物を無造作に掴む。

「駄目ですよ! それは高名な作家がつくった文鎮です!」

「犬の糞かと思ったよ。ハハハ!」

 どう見ても犬の糞だなと呟くソクジンを尻目に、ナムジュンはため息を漏らしながら壺や巻物を見て回った。

「どうしてこんなすごい物が山奥の村にあるんでしょう……」

「山奥の村だからだよ」

 ソクジンは“犬の糞”をポイッと放ると言った。

「これだけのお宝を都の屋敷の中に貯め込んでいれば、すぐに噂になるだろう? 欲深い両班が難癖をつけて取り上げるかもしれない。盗人に入られる危険性もある。だが、誰も近づきたがらない人食い虎が出る山奥の寒村に隠しておけば安全だ」

「だから、あのパンって男は自らこの村の村長の役を買って出たんですね」

 ナムジュンはすっかり感心して、ジンヒョンの満月のように美しい顔を見つめた。

「そうだろうな。財宝を上手く隠せたのは良かったが、今度は人食い虎に悩まされるようになった。そこで、村を通過する何も知らない旅人を脅して虎退治をさせようと考えた。ナムジュナ以前にも、虎退治を強制された旅人が何人かいるはずだ」

 そう言って、ソクジンは壺の後ろに隠すようにして置いてあった葛籠(つづら)を開いた。

 葛籠の中には、見事な雄々しい虎の毛皮が何枚も重なっていた。

「ヒョン……これは……」

「思った通りだ。ナムジュナの前に村にやってきた旅人たちが倒した虎だ。抜け目のない村長は、旅人が退治した虎の毛皮を自分の財宝にして隠していたんだ」

 生唾を呑み込むナムジュンの後ろからソクジンが赤い口で言った。

「馬鹿正直に虎を退治する必要なんてないよ、ジュナ。虎はもうここにいる」


               *


 パン屋敷に続く道を、鮮やかな韓服を着た見目麗しい四人の青年が歩いていた。彼らは頭の付いた見事な虎の毛皮を担ぎ、意気揚々とパンの屋敷に向かっている。

 村人たちが畑仕事の手を止めて集まって来る中、青年たちは屋敷に到着し、門番にパン村長との面会を申し出た。

 四人は屋敷の中庭に通されて、白い砂の上に座って村長を待った。

「人食い虎を捕まえました」

 ナムジュンが恭しく虎の毛皮を差し出すと、パンは奇妙な顔でナムジュンを見下ろして訊いた。

「どこで仕留めた? お前たちが『虎が出た』と叫ぶから村の者たちが加勢に行ったのに、虎なんてどこにもいなかったじゃないか」

「それは、俺が岩を虎と見間違えたんです」

 ユンギがニィッと笑って頭を掻く。

「その間に、ナムジュンが山の奥深くでこの虎を仕留めました」

 蘭陵王(らんりょうおう)の仮面をかぶったソクジンが落ち着いた声で答える。

ソクジンは、人前でうっかりと微笑を漏らしてしまわないように――彼の破顔一笑を目撃した人間は、男も女も彼に恋焦がれて三日の内に悶死するのである――蘭陵王という伝説上の美貌の将軍の仮面をかぶっているのだった。

「げんこつ一発で仕留めたんですよ。おまけに、その場で虎を捌いて肉を食らい、皮だけにしちゃったんです」

 ホソクがにこにこと話す。

「こいつ、優男に見えて、実に豪快な男なんですよ」

と、ユンギがナムジュンの肩を抱いてニィッと笑った。

 パン村長は、虎の皮と青年たちを片方の眉を吊り上げて眺めていたが、やがて丸く突き出たお腹をのけぞらせて言った。

「よし。虎の皮はこっちに寄越しなさい。お前たちは行ってもいい」

 村長の言葉と同時に、村人たちが近づいて来て虎の皮を取り上げてしまった。


 解放された四人がパンの屋敷の門を潜った時、村道の向こうから馬が数頭駆けて来るのが見えた。

 馬の群れはまっすぐ四人に向かって来ると、目の痛くなるような土埃を起こして止まった。先頭の馬に乗った両班の帽子をかぶった男が飛び降りて四人の前に立った。

「な、何……?」

 口を開いて見つめる四人の前で、男は懐から巻物を取り出すとやけに威厳のある声で言った。

「仁旺山の虎を殺したのはお前か?」

 頷いたナムジュンを一瞥して、男は小さく咳払いをすると巻物を読み上げた。

「仁旺山は天子様の山である。山に棲む虎を殺した者は、天子様の虎を殺したと同罪である。よって、お前を死罪に処する」

「わぁ……」

 ナムジュンはポカンと口を開いて細い目を瞬いた。

四人が振り返ると、背後にはパンを中心にした村人たちが立ってニヤニヤと笑っている。

「お前ッ……」

 小さく拳を振り上げたユンギに向かって、パンは人差し指を目に当ててあっかんべーをした。

「ヒョン……どうしよう」

 ホソクがユンギにしがみつく。

両班の帽子をかぶった男は、巻物を懐に戻すと鷹揚にナムジュンの顔を見て言った。

「言い分があるのなら首を刎ねる前に聞いてやろう」

 呆然としているナムジュンの肩をソクジンが叩いた。仮面の下が微笑しているのがわかる。

「文官のお役人様だ。弁論で勝負だ。やってやれ、ジュナ」

 ナムジュンは、まん丸に開いた口を閉じると一歩前に踏み出した。

「あ……あ……あ……」

 喉の調子を整えて、人差し指を役人に向けると低い声で呟いた。

「Let`s Go!」


 猛虎棲み 月麗しい青山

 何為に 人が棲む

 虎の巣に 財宝隠して

 己の腹を 肥やす為

 見てみろよ 村長の丸い腹を

 糞(ファック)なお宝

 食った腹だぜ

 

 両班の帽子をかぶった役人は気色ばんで声を張りあげた。

「何を根拠にそのようなことを! パン殿を侮辱すると鋸引きの刑だぞ!」

「それは見てみてえな」

 呟いてユンギが前に進み出る。


金樽美酒千人血

(金の樽のうまい酒は多くの民の血)

玉盤佳肴萬姓膏

(美しい皿のうまい料理は多くの民から搾った脂)

燭涙落時民涙落

(ろうそくの涙が落ちるとき民の涙が落ち)

歡聲高處怨聲高

(笑い声の上がるところに恨みがつのる)


朝鮮で流行りの小説『春香伝』の詩を歌って小粋に肩を揺する。

 役人の顔が真っ赤になった。

「あのようなふしだらな小説の文句を歌うとは! こやつの首も刎ねろ!」

 屈強な男たちが腰の剣を抜いて馬から飛び降りる。

 その前にホソクがひらりと立ち塞がって、まぶしい微笑を振りまきながら踊り出した。


 青い山をのんびり駆け回っていた虎

 巣穴に戻って ひと眠りを楽しみにしてたのに

槍で突かれて毛皮にされちゃった

 

ホソクの微笑に気圧されて剣を構えた男たちが後ずさった。

ナムジュンが低い声で歌いながらさらに追いつめる。

 

 苛政は虎よりも猛し

 お前は苛政をしたいのか

 天子様は苛政を望む、糞(ファック!)で最低(シット!)なお方なのか


 ナムジュンに指差されて役人と男たちはタジタジと退いた。

「いや……そうじゃない……だが……」

 その時、黙って見ていたソクジンが仮面の下でハハハと低い笑い声をあげた。

彼は鷹揚な足取りで歩き出すと、まっすぐ役人の前に歩いて行きその肩をトンと押した。

「どいてくれないか?」

 その気高い佇まいと、仮面越しでも隠し切れない美貌に、役人たちは青ざめて道を空ける。

 剣を抜いた男たちの前をソクジンは泰然として歩き出した。

「ヤー、お前たち。行くぞ」

 長兄の声にハッとして、ナムジュン、ユンギ、ホソクは急いで兄の背中を追いかけた。

 

            *


 四人が仁旺山の麓に着く頃には、日はすっかり傾いて西の空が赤紫色に輝いていた。

 ナムジュンは西日に縁どられたヒョンたちの背中に向かって助けてくれたお礼を言った。

「あの、ありがとうございました」

「ったく。久しぶりにクタクタに疲れたぜ」

 ユンギが肩を鳴らしながら憎まれ口を叩く。

「帰りに酒場で一杯やるか?」

 ソクジンが微笑すると、ホソクがパッと顔を輝かせた。

「じゃあ、酒場で僕の新作の舞を見てくださいよ!」

ありがとう……ナムジュンはもう一度呟くと、紫色に輝く秋の夕暮れを見上げた。

妖魔になって色々と思うことはあるが、ジンヒョン、ユンギヒョン、ホビと出会えてよかった。できることなら、自分の存在が消えるまで彼らとずっと一緒にいたい……。

口元に微笑を浮かべてナムジュンは首筋に流れる冷えた汗を拭った。その瞬間、彼はあることを思い出して「あ!」と頓狂な声を上げた。

前を歩く三人が振り返った。

「どうした?」

ナムジュンは足を止めて、泣きそうな顔で兄たちを見つめた。

「ヒョン、どうしましょう……返さなきゃいけない槍を村に忘れて来てしまいました……」

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