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#014 砂漠~ 敦煌 井上靖

これまで読んだ本の中でトップ10に入る作品は、やはり井上靖の「敦煌」だ。同じ砂漠でも中東の砂漠と異なり、東西文明の交通の要所にある砂漠は、スケールが異なる。そこは、巨大な都市と文明があり、様々な文化が集積する一大文化センターであった。
時代はチャイナの宋。極めて優秀でありながら、待ち時間中に昼寝してしまい、科挙に失敗した趙行徳は、開封(南京)の町を徘徊する。そこで、全裸の西夏(チベット族の強大な国家)の女が売りに出されているのを見て救ってやる。見返りに、女は趙行徳に一枚の小さな紙片を与える。そこに書かれた異様な文字が趙行徳の運命を変える。
西夏との戦いによって、沙州(敦煌)は滅びるが、趙行徳をはじめ、僧侶らの努力によって、万巻の仏教経典が沙州西の鳴沙山の丘にある千仏洞に隠されることになった(1037年)。西夏の王、李元昊は、興慶を国都とし、自ら皇帝と称す(1038年)。西夏は、崇仏の念が篤く、西夏人の多くも仏教徒であったが、宋との戦争が続き、千仏洞は長期間、そのままに打ち棄てられていた。一時的とはいえ、西夏と宋の和が成立したのは、1043年。双方共に戦争で財政難となり、講和の必要性に迫られていた。李元昊は、形式上、宋に臣属することを承諾し、大量の絹や茶の歳賜を受け取ることになった。その後、李元昊は、仏教の興隆に力を入れ、仏寺や僧侶は保護され、千仏洞の石窟修復工事も行われるようになる。
その後、沙州一帯の地は、その後何百年の間に、度々名称が変わる。西夏時代には、州名を失うが、元の時代に再び、沙州となり、明に至って、沙州衛となり、清時代に敦煌県となる。「敦煌」とは、大きく、盛んなる意味。漢、随時代の西方文化東伝の門戸として、この地が文化燦然たるものがあった時代に使われた名前で、これが復活したことになる。しかし、その存在は目立たず、誰も石窟群を知らない時代が続く。1900年代初頭になり、王という道士が石窟を発見し、窟の一つに住んで、清掃に当たっていた。既に西夏の侵入から850年の歳月が流れていた。そしてある日、石窟の中に空洞を発見し、ぎっしりと詰め込まれた経巻類の堆積に遭遇する。その後、役所の無関心もあって、海外からの探検家が経典類を買い求めて流出し、その価値が世界で認められる様になる。経巻は全部で4万点。古代トルコ語、チベット語、西夏語他の仏典、世界最古の写経、大蔵経未収の仏典、禅定伝灯史の資料、地誌、マニ教、景教の教義伝書、梵語、西蔵語の典籍他、古語研究に新しい光を与えるものもあり。その他、従来の東洋学、支那学を大きく変える史料が含まれていた。それらは、後に、東洋学に留まらず、世界文化史上のあらゆる分野の研究を改変する宝物であることが判明する。文明が伝来する要所が、歴史的な文化集積センターになることが良く分かる。それらを命を懸けて、後世に残そうとした人々に心から敬意を表したい。


「敦煌」掲載の地図を加工






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