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#007 牟田口義郎「中東への視角」(昭和52年)

牟田口は、同著の第一章で、「日本風景論」(1804年)の著者、近代日本の思想家、地理啓蒙家である志賀重昂(しがしげたか)を取り上げている。
志賀は、明治43年(1910年)から、世界を3度1周しているが、「知られざる国々」ではキューバ、ブラジル、パラグアイ、チリ、メキシコ、ビルマ、中東諸国、南アに及んでいる。ちょうど100年前の大正13年(1924年)2月28日に、志賀は船で、ムンバイからパキスタン沖を抜け、オマーンのマスカットに上陸した。その後、イランのバンダルアッバース、バーレーン、クウェート、さらにイランのアバダン、からバグダードに入り、砂漠を車で横断、イラクのルトバからダマスカスへ、そしてイスラエルのハイファ港、アンマンからエルサレム、テルアビブから地中海を渡り、欧州へ渡っている。
以下、牟田口義郎の著書をタネ本として、志賀の慧眼を探っていきたい。
志賀は、エネルギー問題の先覚者でもあった。

牟田口義郎の同書は昭和52年(1987年)刊行で、既に37年が経過しているわけだが、今読んでもその内容は全く色褪せてない様に思われる。
中東研究の第一人者でもあった牟田口義郎の生誕101年記念でもある今年は、彼の著書になるべく多く触れてみたい。

志賀重昂 しがしけたか(1863~1927)
思想家、地理啓蒙家。1884年(明治17年)札幌農学校卒。
「南洋時事」を著す(1887年)
1888年、大同団結の時流の中で三宅雪嶺、島地黙雷、井上円らと政教社を組織。雑誌「日本人」の論客として欧化主義に反対、日本の独自性を尊重する国粋主義思想を展開。農商務省、外務省官吏を経て、1900年政友会に入る。1902年に衆議院議員となるが、その後、政治活動から離れ、世界各地を巡遊し、地理書を書いて海外進出論を鼓吹した。
著書 日本風景論(1894年)、知られざる国々(1926年)




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