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新たなる闘争/逃走のために

『対抗言論』に寄稿する機会をいただいたので、これを起爆剤にして勢いのあるうちに文章を書きたいと思ってnoteを始めたのだが、案の定と言うべきか、一年以上も更新できていなかった(昨年は大きなライフイベントもあり、日々の生活は相も変わらず仕事に忙殺されていている)。いくつか書きたいと思っているものはある。だが、まずは『対抗言論』の自身の論考の反省から書き始めたい。

革命/神殺しから遠く離れて――静かな退職者

『対抗言論』vol.3が出てから1年以上経ち、その間に自分の書いた『もののけ姫』論の、と言うよりも自分の思考そのものの限界について思うところがいくつかあった。去年は、ジェームズ・C・スコット『ゾミア 脱国家の世界史』を牛の歩みのようにもそもそ読んでいた――驚くべきことに断続的に1年くらい読み続けているがまだ読み終わっていない――のだが、近代以前の時代においては、逃げること、頑張らないこと、適当に生きることなどが国家を破滅に追いやる力を持っていたことに改めて勇気づけられたりした。定住しない、作物を育てない、知恵を所有しない(新たな知識を学ぼうとしない)、等々。居住地を転々としたり、租税されにくいものを育てたりする、そういうことが統治と収奪への抵抗になる。

民衆にとっては逃走という物理的行為こそが自由の源泉であり、逃避こそが国家権力に対する主要な抑制力であった。後に詳しく見るが、徴兵、強制労働、徴税によって重い負担を強いられた人々は、反乱を起こすより、概して山地や隣の王国に逃げ去ることを選択した。

ジェームズ・C・スコット『ゾミア 脱国家の世界史』

そして実際、この「逃走」こそが「長いあいだ、平地国家でさえほとんど存在しなかったことこそが東南アジア史の特徴だ」と述べられる様な状況を作り出した。こういう話を読むにつけ、権力への抵抗と革命や神(天皇)殺しを直結させてしまうということそのものが、どうしようもなく「常民」的な思考であり、自分が考えたかったアウトサイダーたちの生き方をないがしろにする思考であるということに気付かされもした。
 現代の我々に置き換えてみて、例えば、仕事を頑張らない、何事にも一生懸命に取り組まない、努力しない、自分を成長させようとしない、生産性を求めない…そういうこともまた、権力への抵抗になるということを決して忘れないようにしたい。
 もちろん、資本主義の外側に出ることがほとんど不可能と言って良い現代(の日本)において、権力による収奪からの完全なる逃走など不可能だろう。であれば、資本主義の内部にいながらにしてぎりぎり可能な逃走/闘争のラインを探すしかない。
 その点で私が今関心を寄せているのは、「静かな退職(Quiet Quitting)」という概念である。キャリアアップなどは目指さず、契約履行上必要最低限の仕事だけを淡々と行うような働き方である。時間も労力も知恵もやる気も決して不当に搾取されてはいけない。であれば、時間も労力も知恵もやる気もできるだけ仕事のために使わないことは、まさしく資本主義の内部におけるぎりぎりゾミア的な抵抗である。

新たなる闘争/逃走のために

 上記をつらつらと書いている間に読んでいたブレイディみかこ『他者の靴を履く アナ―キック・エンパシーのすすめ』に、ジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方』の議論を引用した箇所があった。スコットは、プチ・ブルジョアジーは社会主義陣営にも資本主義下の民主主義陣営にも嫌悪されてきたとし、その理由を「いかなる形のものであれ小規模の財産のほとんどは、国家の管理を巧みに避ける手段をもっている」からだとしている。そこからブレイディみかこは、「つまり、スコットがプチ・ブルジョアジーを評価する大きな理由は、彼らは国家が張る網の目に搦めとられることなく、庶民階級でありながらも、自立と自治により近い生き方ができる立場にあるからだ」とし、プチ・ブルジョアジー的「自立」に、非マルクス的(=非革命的)な権力への抵抗の可能性を見出している。これが反緊縮&再分配の必要性の議論とセットになり、この資本主義社会における労働者階級の「自立」の可能性への言及となっている。
 だが私の中には、反緊縮&再分配の路線は、やはり若者たちには支持されないだろうという暗い予想もある。前回の投稿でも触れたが、今の日本社会の問題は、階級闘争や組合運動にエネルギーを使うのではなく、副業と節約に勤しみ投資によって資産を増やすことの方が何倍もコスパが良い、ということである。再分配的な政策によって少しずつ社会が底上げされて行った先に幸福な未来があると信じることができない若者たち。彼女ら/彼らは自らの豊かさのために、米国企業が(自分を含む)あらゆる人々から富を搾取し続けること、再分配的な政策ではなく法人税の減税や金融市場の制限緩和が行われることを望む。
 もちろんこの言い方は労働者を主語に想定して書いたわけだが、これがプチ・ブルジョアジーであっても変わらない。と言うか、FIREを語る言説の多くは、正規雇用者の社会保障上の特権を享受しつつ静かな退職者として本業へ割くリソースを限定してその分を個人事業主としての副業に割り振ろう、みたいな話なので、むしろプチ・ブルジョアジーこそがそういう社会を望むのではないだろうか。
 そんな社会における抵抗とは何なのか、それを本気で考えないといけないと思っている。想像力が必要になるのはおそらくここだと思う。若者たちはこう思うのではないか? 「私が勤める企業こそグローバル資本主義の中で搾取される側の存在であり、私の住む日本こそグローバル資本主義の中で搾取される側の存在である。」と。企業も国家も、抵抗すべき権力とはみなされていないのではないか。であればプロレタリアートだろうがプチ・ブルジョアジーだろうが、若者たちにとっての最適解はやはり、米国企業があらゆる人々から富を搾取し続け、再分配的な政策ではなく法人税の減税や金融市場の制限緩和が行われることなのである。
 もちろん、非正規雇用者や低収入の個人事業主などは上記のくくりには入らないと思えるのだが、そこもまた反緊縮&再分配の路線で連帯できるのかはわからない。私も5年間非正規雇用者として労働していたが、(裕福とは到底言えないまでも)貧困を経験したとは言い難い。この辺の肌感覚は、正直なところよくわからない。
 何はともあれ、革命でもなく階級闘争でもなく組合運動でもない、「静かな退職(Quiet Quitting)」というゾミア的逃走/闘争が若者たちの心を捉えていることに、資本主義の搾取に対する抵抗の連帯への第一歩として利用できるのではないかという、一縷の望みを見出したい。

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