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「これからの正義の話をしよう」 ~ デレステ 今後のStageforCinderella で考慮すべきいくつかのこと ~

人気がすべてを支配する?

ワタシはこういう言い方が嫌いである。
「担当アイドルの人気があがらないのは、担当Pの努力が足りないせい」

確かに、課金額が少なかったら総選挙の票は伸びないのだから、それも一理あるわけだが、選挙期間中に担当のガチャがきて、ほんとは課金する気がなかったPがいっぱいガチャ回して、副次的に票が伸びる、とか、急にイベント曲が発表されて、注目があがるとか、そんなことをPのせいにされてもたまらない。

表題にある、「これからの正義の話をしよう」、とは、ハーバード大学の教授 マイケル・サンデル氏の著書の題名である。
TEDで公演したこともある有名な教授で、余談だが、彼がとりあげた「トロッコ問題」(ブレーキが壊れて止まれないトロッコの前に分岐点があり、その先には5人のヒトが見える。だが、分岐を切り替えればその先は1人。さて、どちらに進むべきか)は、正義をどうとらえるかを試している。(この問題はかなり哲学的に難しい問題である)

この問題は、よく言われる、「最大多数の最大幸福」とはなにか、を考えさせられる。
端的に言えば、「多数決ですべてをきめていいのか」である。

以前のコラムでも触れたのだが、シンデレラガールズについて、「多数決」が絶対正義である、と規定した場合、
「毎年、高垣楓がシンデレラガールになる」とか、
「ボイスないアイドルはすべてきりすてても問題ない」
などという事件が普通に発生するハズである。
 
なぜなら、最大の担当を抱えるアイドルはあきらかに高垣楓であり、190人のアイドルをボイスありなしに分けた場合、担当Pの人数は、ボイスありのアイドル担当だけで7~8割は占めるので、営業的にボイスなしを切り捨てても、多数決的に問題はない。

いや、それはちょっと、と思うだろうけど、一部は暗に認められていることである。
「人気のある子が出番が多くてあたりまえ」なのである。

シンデレラは190人全員がシンデレラ、というのは「理念」としては全く正しいし、運営もできるだけ不公平感をいだかないように気をつけているようであるが、それでもあつかいに差はでてくる。
要はどうバランスをとるかの問題だ。

努力と成果のコト

さて、ここでまた別の問題が生じる。
先のサンデル教授が次に著したのが
「実力も運のうち 能力主義は正義か」、である。

「実力も運のうち、ってどゆこと?」と思うかもしれない。
「実力」と思われてるものは、さまざまな運の上になりたっているのであり、自分が天才だ、とか、これは努力の結晶だからあたりまえ、とか思わない方がいい、である。

たとえば、そう、アイドルがオーディションを受けて、合格するってのを考えてみる。
「合格した!」
ってのは、たしかに「努力が報われた」わけで、箸にも棒にも掛からぬダメダメならいっぱつで弾かれていただろう。
だが、その前提にはさまざまな運がつきまとっており、「ライバルが他のオーディションにでていた」というような普通な運もあるし、「審査員の好みがうまく合った」とか、「コネでねじ込んだアイドルがいなかった」とか、下衆な理由だって考えられるのである。

一言で言えば、「オーディションが正常に運営されている」ことが担保されていなければ、その結果は得られなかった、ってことだ。

サンデル教授は、
「我々は自分の力だけで身を立て、生きているのではない」
「才能を認めてくれる社会に生まれたのは運で、自分の手柄ではない」と、説いていたりする。

冒頭の文、
「担当アイドルの人気があがらないのは、担当Pの努力が足りないせい」
が嫌いである理由もこれでわかると思う。

「いやいや、その成果って、あんただけの努力で得られたのですか? 他のPの多大な協力でなりたってませんか? それ以前に、全員が同じ条件で戦っていますか?」
ってことなのである。

ときどき、「担当のアイドルはこんな子で、こんなエピソードがあって、こんなにかわいい」みたいなことで、コミュとか羅列してくれるわけですが、たまに、
「たしかにそうですけど、それ、運営がいろんなコミュに登場させてくれてるからそうなんじゃないですかね」とか言いたくなるときもある。

この問題はかなり解決が難しく、
「人気のあるアイドルは登場回数が多く、さらに認知されて人気が上がる」
という正のスパイラルと、逆の向きの負のスパイラルが発生しているわけで、どう考えても、それは運営のさじ加減で発生している事案なのであり、
「担当Pの努力が足らなかったから」、ではないのである。

つまり、完全無比に公明正大な選挙が行われるためには、
「アイドルの魅力を伝える情報を全アイドルについて平等に開示すべき」、
であったりする。
まぁ、無理なんですけどね。

担当Pが「アイドルの魅力を広める」ことによって、アイドルの認知があがって、推し、とか、担当、が増えるのはわかるんだが、運営がちょっと動くだけの方がめちゃくちゃ効果があるわけで、
ワタシが
「ライラさんかわいい」って言うより、

運営がカード1枚出す方が。何百倍も効果があるのである。

公平と公正

StageforCinderella は、公平、公正な選挙ではない。

ボイスあるなしで、アイドルの登場回数があきらかに違うし、それがアイドルの認知度に直決するし、ぶっちゃけ、選挙期間中に対象アイドルのガチャを出したり、対象アイドルのイベントやっちゃったりするのは、まったくいただけない。
だけど、それを言い出したら、すべての選挙が難しくなるし、現実的ではない。

つまり、問題として認識し、目指すべきは公平「感」、すべての担当Pができるだけ不満が無いような選挙を目指さないといけないわけである。

今回の StageforCinderella で、本選結果について結構荒れたわけだけど、ワタシは、ルールに則ったものであるわけだから、それは「公正」である、と判断してる。
ただ、「公平感」があったか、というと、多少疑問が残るだろう。

この点は、以前のコラムで書いた通り、
担当Pの選挙に対する考えが、
「シンデレラガールや、楽曲を狙う層」
「順位をあげて、イベントその他での出番を狙う層」
「ボイス獲得を狙う層」
に分かれており、それぞれで想いが違うことによっている。

これ、それぞれを考慮して今後を考えないといけないわけで、単純に昔の総選挙に戻せ、とか、ボイスオーディションを分離する、とかで解決する問題ではないことがわかると思う。

やはり、たちもどって考えるべきなのは
「シンデレラガール」とはなにか、なのではないだろうか。

全アイドルの中で、一番の人気アイドルなのであるか? それとも、その年のMVP的存在であるのか? これまでに積み上げてきたものが評価されるものなのか? 今後が期待される一番のアイドル? いったいなにものなのだろうか?

選挙は多数決で決まる仕組みである。
選挙には「争点」がないと、なんとなく、で流されたまま、なんとなく多数派で決まってしまいがちである。
それが前回、前々回、2位が繰り上がる、っていう結果をもたらしたと、ワタシはみている。争点がないのだから(7回だから、あべなな、のような)、順当に、年功序列、論功行賞で決まることになるのである。

「シンデレラガール」が、いわゆる、「アイドルの殿堂」みたいなものなのであれば、論功行賞でよいのかもしれない。人気あるアイドルが順繰りに受賞する、でもいいのである。

ここまでくると、もう、「シンデレラガール」とはなにか、を定義しないと、全Pのコンセンサスとはならないだろう。
まだまだ、ワタシ自身での結論は出ていないが、これを読んだPの皆さんは、きっちり運営に意見を申していいと思う。

「StageforCinderella はなにを決める選挙なのか」
その考えの一助になれば幸いである。

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