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静かの海のパライソ 感想&考察

刀剣乱舞自体は結構前からプレイしていたのですが(審神者歴5年目)、2.5にハマったのは今年(2023年)の春からです。「映画刀剣乱舞ー黎明ー」を観たのがきっかけでした。

伊達推し、鶴丸推しの私としては、「ミュージカル『刀剣乱舞』〜静かの海のパライソ〜」は絶対に観なければならない作品だと思いつつも、「重い」「地獄」という前情報だけは聞いていたので、なかなか踏み出せずにいたのですが、とうとう覚悟を決めて拝見したので、個人的なメモや考察も兼ねて、感想や思いの丈を書き連ねたいと思います。

観終わった後はすごいものを観たという感じでなかなか寝付けなくて、次の日にふらふらになりながら刀剣乱舞好きの友達と遊びに出かけ、ひたすらパライソについて語り倒していた記憶があります。

私の魂は今もパライソに置いてきたままで、時たまパライソに帰りたくて帰りたくて堪らなくなる、そんな私の心に消えない傷を残したとても素敵な作品でした。

以下、当然のようにネタバレや話の結末に触れておりますので、ご注意ください

また、以下の作品の内容に触れてますので、未視聴の方はご注意ください

・「ミュージカル『刀剣乱舞』〜葵咲本紀〜」
・「ミュージカル『刀剣乱舞』鶴丸国永 大倶利伽羅 双騎出陣 〜春風桃李巵〜」
・「ミュージカル『刀剣乱舞』〜江水散花雪〜
・「ミュージカル『刀剣乱舞』歌合 乱舞狂乱 2019」
・「ミュージカル『刀剣乱舞』五周年記念 壽 乱舞音曲祭」

また、日向正宗の手紙の内容にも少し触れています。


◎無常の風

冒頭は民衆達と歴史上の人物(山田右衛門作と天草四郎)の歌から始まるので、作中で刀剣男士(鶴丸国永)が最初に歌う歌ですね。

調べたら「無常の風」という言葉が辞書にあるんですね。

「風が花を散らすところから、人の命を奪うこの世の無常を風にたとえていったもの」

「コトバンク」より

「静かの海のパライソ」のストーリーを振り返ってみると、島原の乱の中心人物である天草四郎が時間遡行軍によって殺されてしまったため、鶴丸国永・日向正宗・浦島虎徹の三振りが天草四郎を演じて民衆を扇動し、歴史どおりに島原の乱を起こす、というものでした。
文字に起こしてみると「たったそれだけ」なんですけど、決して「たったそれだけ」で片付けられるようなものではない。
何故なら、島原の乱に参加した三万七千人は撫で切り(皆殺し)にあって終わるから。そして相対した幕府軍も多くの犠牲を出します。これが史実なのです。

無常の風は「無情」の風。風はただ吹くだけで命を散らしてしまうもので、そこに情けや容赦が介入する余地はありません。風に向かって、桜が散ってしまうから春は絶対に吹くな!なんて文句を言っても無駄ですもんね。

けれども、古くからこの本丸を支えてきた鶴丸は知っています。
時間遡行軍によって大河の流れが絶たれてしまったなら、無理やり風を起こしてでも、正しい歴史(みち)に戻さなければならないことを。

何処吹く風とは違って、かつて物であった鶴丸には今、心が宿っています。なのに、名もなき人々の怒りも嘆きも聞き入れず、情け容赦のない「無情」の風として名もなき三万七千人の命をこの手で散らさねばならない。彼はそのことを嫌というほどわかっています。

鶴丸国永という刀は、何よりも「驚き」を大切にしています。何ひとつ変わり映えのない生活の中で、予想し得る出来事ばかりで心が先に死んでいかないように、他人に、そして自分にも驚きを提供しようとしているのは、もはや改めて述べることでもないでしょう。

風は驚きを生みます。
波乱万丈とはよく言ったもので、起伏のない凪のような平坦な人生などつまらないと、彼は思っているのかもしれません。
しかし、それでも彼は嫌な驚きを望んでいるわけではないと思うんですよね。
嫌な驚き……それは家族との突然の別れ、予期せぬ病、愛する人の死など、数えればきりがありません。嫌な驚きを目の当たりにした時、人はまるでガラスに全身を打ち付けられたような痛みを感じます。目の前で起きていることが受け入れられず、心がズタズタになって、砕け散ったガラス片の中で何とか抜け出そうと足掻き藻掻いているうちは、確かに退屈で心が死ぬことはないのでしょう。
でも、彼は決してそれを望んでいるわけではないと思います(詳しくは「◎三日月に問う」にて)。

劇中歌『無常の風』の中で鶴丸は高らかに歌います。「驚きを生め 足掻け藻掻け ただ無常に吹く風に逆らえるなら逆らってみろよ」と。

逆らえるものなら逆らってみろよ」とは、自らの手で無常の風を起こさなければならない状況の中で、歴史の流れに人が逆らえるものではないと頭では分かっていながらも、それでもどうか全力で逆らってほしいという、三万七千人の名もなき民衆に対する、ある種の宣戦布告のような、そして、彼の心の内から溢れ出た願いだったのかもしれません

◎憎まれ役を演じる

鶴丸は主に、出陣の編成を任せてほしいと申し出ます。

ミュ本丸で過去に起きたという「例の事件」。詳しくはまだ語られていませんが、戦いの中で刀(おそらくは初期刀)が折れてしまったのだと推察できます。「春風桃李巵」で「先の任務から間もない出陣ですが…」という主に対し、鶴丸が「むしろ助かる」と言ったこと、そして、顕現したばかりの大倶利伽羅を、もう二度と同じ目に合わせたくないという思いから獅子の子落とし(=フルボッコ)をしたことからも、鶴丸は例の事件の関係者であり、かなり強いトラウマを抱えてしまっているようです

だからこそ、顕現したて、生まれたてほやほやの松井江を「強く」するため、彼の因縁の地である島原に向かわせようと編成に加え、そのフォローのために豊前江をも加えました。浦島と日向を入れた理由ははっきりわかりませんが、もしかすると似たような理由だったのかもしれません。旧知の大倶利伽羅を編成に組み込んだのはきっと、自分の背中を支えてほしいという思いからだったのでしょう。「春風桃李巵」の劇中歌『傷だらけの背中』の中で倒れた大倶利伽羅を見ながら「この背中を預ける時は来るのか」と歌っていた鶴丸ですが、今は間違いなく背中を大倶利伽羅に預けている。ゼロから、いや、例の獅子の子落とし(=フルボッコ)でマイナスから始まったとも言える二人の関係は、今や唯一無二の確固たるものにまでなってたんですね(涙)。

話を元に戻します。

鶴丸は今回の出陣で「無常の風」として駆け抜けるために、憎まれ役を演じようと徹底しました

時間遡行軍に殺されてしまった天草四郎を連れて行こうとする山田右衛門作に「それはもうただのものだからな」と冷たく返事をしたり、時間遡行軍ではなく人間と対峙することに躊躇う浦島と松井に対して「それが嫌なら刀剣男士、やめるかい?」と挑発したりしたことが顕著だと思います。

何故憎まれ役を演じるのかと問う大倶利伽羅に、鶴丸は「自分自身を憎めるくらいじゃなきゃやってられないだろ、こんな戦」と答えます。

ミュ本丸の中では「鬼教官」とか「美人だけどキツい」とか言われてそうなこの鶴丸ですが、憎まれ役を演じることで、刀剣男士達に逃げ道をちゃんと作ってるんですよね。そして一方で、自らが編成を組むことで主すらも憎ませない、たった一人、自分だけを憎むように仕向けたのかと思うと、そりゃああの大倶利伽羅も心配するというものです。何でもかんでも一人で抱え込まないでくれ……。

◎白き息

そんな大倶利伽羅のソロ曲です。

初めて聞いた時、大倶利伽羅の歌のうまさに圧倒されてしまい、「静かに飛ぶ時を待つ鳥 その背にたたまれた白き羽 背負っているのは抱えきれぬほどの……」の時に後ろに鶴が映っていることになかなか気付けませんでした。

白き羽……つまり、この歌は鶴丸への想いを込めた歌なんだということを、何回か見返してやっと気づきました。本当に気づくのが遅い。反省。

この劇中歌『白き息』は「春風桃李巵」の劇中歌『傷だらけの背中』のアンサーソングでもあります。

「己から流れた血」がかつては「抗えぬ弱さ」であったのに、今では「凌ぎ削った証」であると歌う。己から流れた血をも肯定できるようになったんだと思うと、大倶利伽羅の目まぐるしい成長に胸を打たれます。本当に強くなったね……。

「春風桃李巵」において、顕現したてなのに心を修羅にした鶴丸にボコボコ( )にされて敗北感や屈辱をその身に叩き込まれた大倶利伽羅ですが、それでも鶴丸の背中を見て育ったのだろうと思います。

そして、その背中を見て育ったからこそ、古くからこの本丸を支えてきた鶴丸の背中が傷だらけであることにも気づいたのかもしれません。傷があってもなお決して損なわれることのない、彼の強さ。それが大倶利伽羅にも伝わったからこそ、「己から流れた血は凌ぎ削った証」だと認められたのかなとか……。(これは私の妄想です)

背中で語るスタイルで、全体的に言葉足らずな鶴丸ですが、それでも大倶利伽羅は彼が今回の出陣で成そうとしていることには誰よりも早く気づいたはずです。何故なら、大倶利伽羅はその傷だらけの背中をずっと後ろで見てきたのだから。鶴丸が背負っているものが一人では抱えきれぬほど重いことにも当然気づいています。まさに「見えぬふりはできぬ 傷はある」のです。

「祈りの言葉も 捧げる花も 持たぬ」彼が、それでも今の己にできることは「この身を鍛えるのみ」なのだと決心して刀を振るうのは、とても頼もしく、無骨で、不器用で、まさに彼らしいと思います。つまり、この『白き息』はこの先何が起きても鶴丸を支えるのだという決意表明の歌なのです。

だからこそ、劇中歌『三万七千の人生(ライブ)』で、大倶利伽羅は普段であれば「馴れ合うつもりはない」と言って絶対に振らないであろう旗を大きく振りかぶって、民衆を煽動する鶴丸(が扮する天草四郎)を力強く鼓舞したのです。

◎パライソを目指して

天草四郎に扮した鶴丸・日向・浦島の三人は各々が各々の方法で人を集めます。

鶴丸はその圧倒的で暴力的なまでのカリスマ性で、浦島は弾圧された人々に寄り添う屈託のない陽だまりのような優しさで。

中でも日向の集め方は、二人とは一線を画しているように見えます。何故なら日向は山田右衛門作によって「太閤殿下の孫である」とまるで客寄せパンダのように担ぎ上げられるからです。

「我らには太閤殿下の孫がついている」
「太閤殿下の時代にはキリシタンにも自由があった」

そう山田右衛門作に扇動され、民衆は一揆に加わる決心をします。もちろん、大坂夏の陣で自害に追い込まれた秀頼公の忘れ形見がこんなところにいるはずありませんし、太閤殿下の時代にもバテレン追放令とかでキリシタンは弾圧されていた。
少し考えれば「おかしい」「変だ」と気づくはずです。なのに、民衆は山田右衛門作の言葉を疑うことなく、その甘い言葉をまんまと信じてしまった

人は光を求めている」と山田右衛門作は言います。長い間弾圧され虐げられてきた民衆はずっと暗闇の中を彷徨っていました。その暗闇に一筋の光が差し込んだのだとしたら、そりゃあ縋りたくもなるでしょう

パライソに行けば全て救われる。
痛みも苦しみも越えて、約束の地で何もかも許される。だから、何も怖くないのだと。

しかし、その光が強烈であればあるほど、自分で考える力を奪い、麻痺させてしまうという恐ろしい一面も持ち合わせています

自分たちは「正義」で、邪魔をするものは皆「悪」だ。だから、悪人は殺しても構わない。
例えここで命を散らすことになっても、我らが主がパライソへと導いてくれる。

まさに、何も怖くない。
強烈で暴力的な光に酔倒し、民衆はある意味では考えることを放棄してしまったのです

◎歴史を守るとはこういうこと

「静かの海のパライソ」を観ていて衝撃を受けたのが、歴史を守るためなら、刀剣男士は時間遡行軍だけでなく、生きている人間にすらも手を下すということでした。

島原の地に降り立ってから、彼らはいきなり時間遡行軍と対峙します。が、それ以降時間遡行軍は全くと言っていいほど出てこず、代わりに民衆や幕府軍ーーつまり人間との戦いの場面ばかり描写されますが、これは意図してやっていると思います。

つまり、歴史を守るためには、時には人間をも容赦なく殺さねばならないというむごい一面を強調する意図です(相手が異形の時間遡行軍だからむごくないとかそういう話ではありません)。

私たちゲームプレイヤーも、無意識のうちに刀剣男士の敵は時間遡行遡行軍だけであると無意識のうちに思っていたはずです。当たり前だと思っていた常識が呆気なく崩れ去り、それまで見えなかった世界が見えてくる。相手が普通の人間だとわかった瞬間の浦島の反応は、私たちの動揺をそのまま映した姿でもあるのです。

◎静かの海

初めて人類の月面着陸に成功したアポロ11号が降り立ったのがこの「静かの海」だそうですね。
綺麗な海に浮かぶ美しい月を見上げて、鶴丸と大倶利伽羅は歌います。まるで、亡くなった民衆、そしてこれから亡くなるであろう民衆に想いを馳せるかのように。

「かつての足跡が消えることのない 穏やかな場所」、それが静かの海です。歴史という大河の流れの中で、名を残す人々はほんの一握りです。その背後には確かにそこに生きた民衆がいた。名を残すこともなく、何を成したのかも語られることなく埋もれていった、名もなき民衆達が

歴史の中に塵芥のように消えていった名もなき民衆は黙り噤んだままで、耳を傾けても何かを語ることはありません。何を憂いているのかもわかりません。死者に口無しとはよく言ったもので、彼らが何も思い、考え、そして死んでいったのかは誰にもわかりません。

名もなき民衆が死んだ後に辿り着く場所として、「静かの海」と「パライソ」は重ね合わせられています。「風は吹かない 退屈な場所」ーーそれが静かの海のパライソなのです。

そして、その「退屈な場所」に、鶴丸は「いつか行ってみたい」と溢します。驚きを求め、退屈を何よりも厭う彼が、です。風も吹かないような退屈な場所だとわかっていながら、それでもいつか行ってみたいと言わしてしまうほど鶴丸の心がすり減っているとも読めてしまうのがなんとも辛いところで……。

◎三日月に問う

任務は成功しました。正史どおり、三万七千人は撫で斬りにあって終わりました。
死体の山が転がる海岸で、鶴丸は三日月の浮かぶ海に向かって叫びます。

「ふざけやがって。歴史の流れの中で悲しい役割を背負わされている奴もいるだ? お前の言う歴史ってなんだよ。歴史に名を残した奴ばかりが、歴史を作ったわけじゃねぇんだぞ。助けてやれよ! 救ってやれよ! 三万七千人! ただの数字じゃねえんだ、それぞれ命があったんだ、生きていたんだ! 連れていってやれよ、静かの海へ、パライソへ! やれるもんならやってみろ!!」

こんなにも泣きそうな顔で、心のうちを叫ぶ鶴丸を私は見たことがありませんでした。何故なら私の知っている鶴丸国永という刀は、いつも余裕綽々で、ちょっと軽薄で、新しい物好きで好奇心旺盛な、頼れる伊達の刀だったからです。同時に隠すのが上手い刀だとも思っていて、本音もその笑顔の裏に隠して、本心なんて決して曝け出さないと思い込んでいました。もちろん、この世にある本丸の数だけ鶴丸国永は居るので一概にそうだと言うつもりはないのですが、それが概ねゲーム内の台詞などから連想できる鶴丸国永という刀の像でした。

なのに、その彼が本心を隠すことなく、繊細で人間らしいとすら言える剥き出しの心を明るい月の下に晒している。衝撃でした。
こんな心の柔らかい部分を見せてもらっていいのかと、見てはいけないものを見てしまっているのではないかと思わず目を背けそうになったほどです。

この独白はほぼ間違いなく、三日月宗近に向けられたものだと思います。

「葵咲本紀」の中で、三日月宗近は歴史の中で「悲しい役割」を背負わされたものがいるとして、彼らに救いの手を差し伸べていました。

しかし、歴史とは決して今の世に名前が残っている人達だけで作られたものではありません。名前すらも残らずに命を散らしていった無数の人々の、途方もない人の営みの上に、今の歴史は成り立っています。歴史に名が残る人なんて、そのうちのほんの一握りなのです。

名もなき彼らが生き抜いた証は、世の中の移り変わりと共に風化していき、後世の記録にも残らず、語り継がれることもありません。歴史に残らないので、後の世に生きる第三者が客観的に見て当てはめた「悲しい役割」という概念すらも存在しない。つまり、歴史の中で悲しい役割を果たした人物として、手を差し伸べられることもないわけです。

ここでふと、「葵咲本紀」の中の明石国行の台詞が頭によぎります。
ーー全てを救えないなら、誰も救えていないのと同じだ、と。

歴史に名を残したものと、歴史に残さなさったもの。
波に攫われて消えた無数の足跡と、微かに残って未来永劫語り継がれた痕跡。
そこに違いはあるのかと、鶴丸は問いかけます。

三万七千人は、この時代に、この場所で確かにそこに生きていた
歴史のうねりに飲み込まれて、もう声をあげることもできない、彼らの声なき叫びを代弁するかの如く、彼は海に向かって叫びます。
助けてやれよ、救ってやれよ
やれるものなら、やってみろ、と。

唯一救いがあるとすれば、この心の叫びを隣で大倶利伽羅がちゃんと聞いていたことです。

誰にも気づかれないように、誰もいない場所で叫ぶことだってできた。でも、しなかった。

大倶利伽羅になら、この傷だらけの心の脆い一面を見せても構わないと判断したからこそ、鶴丸は彼の前で気持ちを吐露したのか……とか思うと、胸が塞がります。大倶利伽羅の前だけでは本音を晒せるってことですか。背中、ちゃんと預けあってるじゃないですか、伊達双騎……ええん。

と、ここまで鶴丸と大倶利伽羅を中心に語ってきたので、その他、特記すべきことをつらつらと。

◎浦島虎徹の成長

浦島虎徹は島原の乱よりも後の時代に打たれた、比較的新しい刀です。作中でも語られているように、まだ生まれてない時代の出来事である島原の乱については知らないようです。

鶴丸が彼を今回の編成に入れた理由ははっきりわかりませんが(松井と同じで、強くなってほしかったのかな、ということぐらい)、脚本の著者が浦島虎徹という刀をこの「静かの海のパライソ」という物語に登場させた理由はわかります。

それは、何も知らない彼を登場させることで、視聴者である私たちに物語に入っていきやすいようにする、という役割です。学園モノとかだと大体何も知らない転校生が主人公(もしくはそれに類する立場)だったりしますよね。浦島虎徹はきっと、そういう役割で選ばれました。

浦島は「どうして?」と素直でまっすぐな疑問を他の刀剣男士に投げかけます。

「でも、相手は人間だよ? 俺たちの敵は時間遡行軍であり、歴史修正主義者で……」
「あの子達に戦をさせるのはどうなんだろう。まだ子供だし……」
「転べ?」
「撫で……切り?」

初見の私たちに近い感覚を持つ浦島を投入することで、この島原の戦いにおける残酷さがより際立つという構造がそこにあります(地獄か?)。

そして、浦島の台詞で幾つか印象に残ったものがあります。

「まっ、鶴丸国永が言うんだからいいのか」
「鶴丸国永と三日月宗近を信じろ。二人の言うことを聞いていれば間違いないって長曽根兄ちゃんが」

このあたりですね。

また、蓑踊り(蓑を着せて火あぶりにする刑罰)という残酷な処刑方法を民衆達から聞いた浦島は、他の刀剣男士達に悲痛な顔で投げかけます。

「そんな残酷なことってある?」
「実際、見たわけじゃないけど……そう聞いたよ!」

このへんの台詞は、比較的新しい刀である浦島の若さや青さから来た台詞なのだと思いますが、他人から聞いたことを素直に信じ、「疑うこと」「自分で考えること」をしていないとも読めます。
他人から聞いたことを鵜呑みにして、疑うことをしない。その選択肢があることすらも知らないかもしれない。
つまり、ある意味では、自分で考えることを放棄し、山田右衛門作に扇動されるままに一揆を起こした民衆達とよく似ているのです。

しかし、パライソを目指して酷く「まるちり(殉職)」していった民衆、太平の世で人を斬ったこともないのにお上に命じられるままにキリシタンを殺さねばならなかった幕府軍、そして、その母親に再び会えることを夢見て一揆に加わった弟と、母親はもう死んでいると知りながらも弟を飢え死にさせたくないと一揆に参加することを決めた兄。彼らとの出会いは浦島の中の「当たり前」や「常識」を破壊しました。荒れ狂う風に揉まれて枝がぽっきりと折れてしまう如く、心が壊れてしまったとしてもおかしくありません。

しかし、浦島は決して心を挫くことはありませんでした。荒れ狂う風に揉まれても、柳のようにしなやかに立ち上がり、しっかり前を見据えたのです。

島原から本丸に帰った後、考え続けることもきっと俺たちの役割なんだと、浦島は言いました。

島原での出来事は、決して癒えない傷を残しました。しかし、かつての「常識」は今や粉々に崩れ去り、代わりに新しい価値観が浦島の中に生まれたのです。その価値観は夜空に瞬く星のように暗闇をそっと照らして、どんな苦境の中でも消えることはないでしょう。

余談ですが、劇中歌『海と夕焼け』で浦島と幼い兄弟が仲を深めるというシーンがありますが、「壽」でこの『海と夕焼け』を浦島が歌うんですよね(泣)。しかも、兄である蜂須賀と長曽根と共に(泣)。『海と夕焼け』の歌の続きを聞いた時、ああこの浦島はきっと、この先何があっても腐ることはないんだろうと漠然と思ったことを覚えています。

◎松井江と豊前江

「歌合」で生まれてきてくれてありがとうと祝福されて顕現した松井ですが、初めての出陣先が自分と深い因縁のある島原だというこの地獄よ。

松井と豊前が、人の身を得て再会したシーンで豊前は「大層なお出迎えだったみてぇじゃねーか!」と言います。素直に読むなら、豊前が顕現した時期は松井と似たような時期だったのだと思います。つまり、顕現したてほやほや

島原に来てからずっと、松井は何かを考え込むような晴れない顔をしています。無理もありません。キリシタンを斬った刀であるという逸話が、彼を生み出し、形作っているのです。その業と向き合わなければならないのですから。

対する豊前はというと、迷いや葛藤はありつつも、ずっと精神的に安定しているように映ります。松井とは同じような時期に顕現し、まだ戦いの経験もほとんどないに等しい状態なのに、です。

豊前は自身のことを、「語れる来歴がない、お化けみたいなものだ」と言います。つまり、何も持っていないのです。だからこそ、過去を振り返ることも、過去と向き合うこともない。それが豊前の強さなのです

幕府軍として原城に潜入し、キリシタンを斬ろうとするも斬れない松井を見て、豊前は力強く言います。「一人で抱えきれねぇぐらい重いんだったら、いつでも言ってくれ。ほら、俺、両手空いてっからさ」と。言葉で感謝を述べることはありませんでしたが、松井はきっとその言葉に救われたことと思います。

そんな豊前の底なしの光に救われたのは松井だけではありません。鶴丸もまた彼に救われた一人だと思います

無常の風を起こすために一人で抱え込んでしまっているせいか、鶴丸は「静かの海のパライソ」の中では何処か余裕のない、怒りを抑え込むような表情をしていることが多いように映ります。

そんな鶴丸が、あからさまに動揺する瞬間があります。それは、「あんたはアイツ(松井)にまた同じことをさせようとしている!」と豊前が鶴丸に問い詰めた後、豊前が「むしろその……あんがとなぁ」と礼を述べた時です。

鬼だと恨まれることはあっても、まさか感謝されるとは微塵も思っていなかったのでしょう。劇中歌『明けに染まる刻』を歌い終わった後、鶴丸は「松井江を頼む」と豊前に託します。豊前は「任せておきな」と言い残し、凄まじい速さで走り去ります。その背中を見て、鶴丸は「速いなぁ、アイツ」と言って、心からの笑顔を見せるのですが、この速いというのはきっと、彼の成長が早いということも意味しているのでしょう。

冷血に見える鶴丸ですが、それでも人々を死に導くことに迷いや葛藤はあったはずです。しかし、二人が去った後、それまでずっと夜だったのに鳥が鳴いて朝日が差し込んでいる。ずっと揺らいでいた心がようやく固まったのでしょう。だからこそ、この後に続くシーン(原城総攻撃など)では、鶴丸は己の役割を果たすために奔走することができたのかもしれません。

◎うまくやろう

日向正宗の口癖とも言うべき台詞ですね。

日向正宗の元の主のひとりに石田三成がいます。生き方が不器用な石田三成を見て、日向はずっと思い続けてきました。
ーーもう少し、もう少しだけ、こうすれば、うまくやれるのにと。

それはある意味では石田三成のしくじりや失敗を側で見続けてきたことになります

人は失敗から学びます。それは刀剣男士も同じです。日向は何度も何度も、石田三成の失敗を目の当たりにしてきました。だから「うまくやろう」という思いが人一倍、いや刀一倍強いのだと思います。無数の失敗をずっと学習してきたからこそ、日向は短刀で子供の見た目をしている反面、とても大人びているように見えます。

天草四郎に扮した日向は、山田右衛門作によって秀頼公の忘形見として担ぎ出されます。

日向は島原の乱が何だったのかを知っています。しかしそれはあくまでも、キリシタンが自分の信じるもののために戦ったという、歴史上の事実としてのこと。もちろん一揆勢の大半はキリシタンだったのだろうと思いますが、それだけではなく、領主の悪政によって虐げられてきた農民の不満や、豊臣方に付いて改易された浪人達の憎しみも入り混じっていることを日向は知ります。こうだと思い込んでいたものがあっけなく崩れ去る瞬間ーー価値観の崩壊です。

しかし、民衆に縋られて、求められて、日向はすぐに自分のなすべきことを悟ります。民衆達が目指すパライソは単なるまやかしかもしれない。パライソに続く道など何処にもなく、辿り着く道の果てはインフェルノなのかもしれない。それでも日向は凛と前を見据えて、光を求める民衆のために旗印となることを決心します

天草四郎が死んでしまった時点で、失敗は既に起こってしまった。

だから、次こそはうまくやろう。
かつての主のようなしくじりを繰り返さないためにも、日向は決心したのです。

◎山田右衛門作という「愚者」

鶴丸って衣装が白なので、こう暗闇からぼんやりと現れるので幽霊みたいだなと思ったりします。何が言いたいかっていうと、幽霊みたいに現れる鶴丸が怖くて最高だなってことです( )。側から観てる私からしても怖かったので、当人である右衛門作はもっと怖かったと思います。

振り返ってみると、鶴丸は最初から右衛門作に対して冷たかったんですよね。それはきっと、右衛門作が島原の乱の首謀者の一人であり、史実の上で三万七千人を撫で斬りに合わせた張本人であることを知っているから(島原の乱が起きてしまったのは、決して右衛門作一人のせいではないとは思いますが、島原の乱という戦いを形作ることになった大きな要素の一つであるのは間違いありません)。

幕府側に寝返ろうとしたとして牢にぶち込まれた右衛門作に、鶴丸は会いにいきます。右衛門作は鶴丸に、何故自分がこの戦を起こしたのかを吐露しようとします。しかし、鶴丸は「どうでもいい」と一刀両断。聞く耳持たずです。

右衛門作は戦場に私情を持ち込み、自分の夢や野望を叶えるために他人を巻き込んだ。そして、その巻き込み方は、キリシタンの純粋な信仰心や虐げられてきた農民の怒りを焚き付けて利用し、自分で考えることを奪うようなものだった。このあたりが鶴丸の怒りポイントだったのかなと思ったりします。

作中の中で、山田右衛門作は敢えて「愚者」ーー愚か者として書かれているように見えます。

天草四郎という少年を偶像にキリシタンを焚き付けたのに、いざ天草四郎が時間遡行軍によって殺されると、劇中歌『おろろん子守唄〜消えた光〜』で「夢やと誰か言ってくれんね」と抜け殻のようにただ嘆くことしかしませんでした。

鶴丸の提案で、鶴丸・浦島・日向の三振りが天草四郎の代役を果たしたことにより、史実どおりに原城での戦いが起こりますが、戦いの中で、幕府軍の大将である板倉重昌は鶴丸によって討死します。板倉を討ち取った後、鶴丸は「どうだお前の望みどおりだろう?」と言わんばかりに刃を向けます。刃を向けられ、右衛門作は腰を抜かし、恐怖に顔を歪ませました。武器を手に取ってパライソを目指す道は、むごったらしく真っ赤な血に塗れた道なのだと、ここでようやく気づいたのかもしれません

そして、幕府から「転べ、降伏せよ。さすれば撫で斬りに処す」という最後通牒が届いた時、右衛門作はあろうことか「降伏しよう」と敵に降ろうとします。戦の血生臭さを目の当たりにして、すっかり怖気付いてしまっています。そんな右衛門作に鶴丸は「なーに言ってやがる! だったら何でこんな戦い始めたんだ?」と激昂。進撃の巨人に倣って言うなら、これはお前が始めた物語だろうが!ってとこですね。鶴丸の怒りポイントその2です。そして、牢にぶち込まれるわけですが……。

山田右衛門作は「愚者」です。
現状を変えるために、武器を取り、周りの人々を巻き込んで立ち上がったのに、いざ戦いが始まるとあまりのむごさに怖気付き、全ての人を道連れにする覚悟も決まっておらず、おろおろと嘆き悲しみ、周囲の意見に流され、道に迷い続けている。

俺たちは流れた血から学ぶしかないんだ」と鶴丸は言います。
山田右衛門作の愚かな姿を見て、この演劇を鑑賞している私たちは学びます。
ーー立ち止まってはいけないんだ、目を背けてはいけないんだ、考えることをやめてはいけないんだ、と。

山田右衛門作は歴史に名を残します。彼はひょっとすると、三日月宗近の言う「悲しい役割を背負わされた者」の一人なのかもしれません。

だからと言って、彼は「悲しい役割を背負わされた者」として救われるべきなのでしょうか。
彼が巻き込んだ名もなき三万七千人には、救いの手が差し伸べられないのに?

そもそも、救いとは何なのでしょうか。
「葵咲本紀」の松平信康のように、本来の歴史の流れから外し、生きながらえさせることなのでしょうか。
しかし、ただひとり生き残った彼にとっては、生き続けることこそが苦しみーー生きている限り、彼は命を散らした三万七千人分の重たい十字架を背負いながら歩き続けなければなりません

鶴丸は「長生きしろよなぁ」と言い残して右衛門作の元を去ります。それは祝福の言葉であると同時に、呪いの言葉でもあるわけです。

◎いつか行ってみたい場所

一番最後の本丸でのシーン。島原に行く前に日向が付けた梅干しを皆で食べて笑い合っていた時、幕が開いて、島原で亡くなったはずの人々が再登場するシーンがありますよね。

そこでは既に亡くなってしまった人々が、皆腹一杯食べ物を食べて、肩を抱いて幸せそうに笑い合っています。キリシタンであったことも、幕府軍であったことも、身分もしがらみも一切関係なく、です。きっと、あそここそが静かの海であり、彼らにとってのパライソなのでしょう

かつての足跡が消えることもなく、風も吹かない、穏やかな場所。その場所に、本丸にいたはずの刀剣男士六振りも入っていって、死者と笑い合い、言葉を交わしています。

物は人よりもこの世に長く残り続けます。しかし、刀の付喪神である彼らにも、いつの日か終わりの時が来ます。それは刀が折れた時かもしれませんし、歴史修正主義者との戦いが終わった時なのかもしれません。

全てのものごとには、いつか終わる時が来る。

刀剣男士である彼らもきっと、全ての役目を果たし、静かの海へと辿り着くときが来るのでしょう。
いつか行ってみたかった、退屈なその場所に。

◯終わりに
ここまで取り止めもなく思ったことを書いてきましたが、書いているうちにどんどん長くなってしまいました笑。このあたりで筆を収めたいと思います。
この文を書くにあたってパライソを見返したり他の公演を見返したりしたのですが、改めて感動したり、心を揺さぶられたり、新たな発見があったりと、とても幸せな時間でした!
拙い文章でしたが、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました!

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