リフレーミング


同じ絵でも、表装を変えれば、イメージが変わる。
マットの色やサイズ、額の色や素材やデザイン。
素敵な絵や作品には、まずそれを飾るにふさわしい十分な余白が必要だと思う。
手のひらサイズのほんとうに小さな絵でも、マットのサイズはそれなりに大きいものにしたいし、それを飾る場所も、やっぱり、照明にまでこだわれなくても、スペースは大きく取りたいもの。結界のように。

それは、たとえば矢継ぎ早になにかをしたりされたりしては、ゆっくりと考えることも十分に解釈をする余裕もなく、腰を据えて向き合えなかった、という消化不良な感覚を覚えるようなもので。

余白がなくてもいい場合もある。
それは、そこにあるものの全てに、自分の感性が十分に行き渡っている場合。たくさんのものがあっても、隅々まで自分の感性が発揮されて、意図してそれを選びそこに置いている、という空間の場合は、余白がなくても、空間全体を貫く自分の哲学によって、なんら窮屈さや場違いな感じはしないもの。


「リフレーミング」という言葉は心理学用語だ。同じ出来事でも、視点や解釈を変えれば、マイナスだとしか思えなかったこともプラスだと思えることがある、という話。
私もそれを体験した。セダンを駐車場に停めて、本屋の入り口へ歩いている最中に、はっとした。

「これひょっとしてラッキーってやつなんじゃないの?」

私の性格でだと、自分から離婚を言い出すことはまずなかっただろう。死ぬまで我慢しただろう。
でも向こうから言いだしてくれた。
しかも、はたから見ればこちらがもろに「被害者」という形で。

それがどう不幸だというのか。
むしろラッキーってやつじゃないのか。

涙しか出なかった日々にも、
「今では旦那浮気してくれてサンキュー!って思います」なんて言葉をネットで見かけていて、そう思える日は私には永遠に来ないね、と思っていたけれど、今はそう思う。


むしろ、順番が彼に回っただけかもしれない。よそ見をするのが彼の方が少し早かったがために、彼が悪者の役をしなければならなくなった。まかり間違えれば私が先によそ見をしたかもしれない。その点で、ラッキーというより、悪者の役を引き受けてくれて、ごめんねありがとう、だ。

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