見出し画像

【連載】それでもぼくは物語る#2 序②

ではなぜ、こんなにも多種多様な「物語」が世の中に存在しているのか。人間はそんなにも「物語」を知ったり、つくったりするのが好きな生き物なのだろうか。

文筆家の千野帽子は、著書『人はなぜ物語を求めるのか』で「人間は物語る動物である」と喝破している。

 人間は、時間的前後関係のなかで世界を把握するという点で、「ストーリーの動物」です。
 そして、そのストーリーを表現するフォーマット=物語に、人間の脳は飛びついてしまいます。人が語っているのを聞くときも、自分が語る番が回ってきたときも。
 人間はしんそこ「物語る動物」なのです。

(千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』ちくまプリマ―新書p.21)

私たちが「物語らざるを得ない」存在だと仮定するならば、社会に無数の物語があふれているのもごくごく自然な話ではないか。物語は、意図してつくるものではなく、なかば自動的に生成されてしまうものなのだから。

ここまでの話をふまえると、「物語」は人間にとって不可欠であり、なくてはならないモノのように思えてくる。しかしながら、「なぜ物語は私たちに不可欠なのか?」と正面から問われると、明快に答えることはなかなか難しい。水や酸素であれば、生存のために必要な理由を生物学的に解説することができるだろう。だが、物語は違う。物語は、口から摂取して体内に取り入れる類のものではない。

先日、その疑問を裏付けるような出来事が起こった。私は2023年6月17日から、メディアプラットフォームのnoteで毎日、記事を更新している(2024年7月現在:https://note.com/shiny_duck882)。大半は音声入力を活用した雑多な内容で、日々の雑談を文字起こししたようなゆるい文章である。ただ毎日更新している次第にネタが尽きてくるので、試しに質問箱(匿名で質問を投稿できるサービス)を使って質問を募集してみた。すると、次のような内容の相談が寄せられた。

――先日、10歳の甥と書店に行く機会があり、私が小説の棚を見ていたら「物語を読んで勉強になるの?」と訊かれました。岩井先生ならどうお答えになりますか?

私はさんざん悩み、前掲した『人はなぜ物語を求めるのか』を示して「人間は物語る動物である」ことを話したうえで、「たくさんの物語を自分のなかに溜めこんでおけば、人生を何通りにも解釈できる」といったようなことを答えた。そもそも勉強とは何か、という論点もあるだろうが、私はあえて、「物語を読むことは勉強になる」と断言して、回答を締めくくった。

この時の経験は心の奥底に沈んで、なかなか消えなかった。思い上がりであることを承知であえて言えば、「あの回答は悪くなかったのではないか」という感慨もあったが、それよりもはるかに強く、「あの回答でよかったのだろうか」という後ろ髪を引かれる思いがあった。10歳の少年が訊きたかったことは、本当にそういうことだったのだろうか? 私の回答を聞いて、彼は納得するだろうか? 自分の外側にある言葉を使って、言いくるめようとしただけなんじゃないか?

この連載で、私はあの時答えられなかったことに少しでも近づきたい。つまり、「物語を読んで勉強になるの?」という問い――言い換えれば「私たちはなぜ物語を作り、そして受け取るのか?」という問いへの答えだ。

もしかしたら、歯切れのいい回答にはならないかもしれない。だが、日々物語を書き、読んでいる私だからこそ、書けることがあるかもしれない。そんなかすかな希望を持って、この序文を書いている。本稿を通じて、読者のみなさんと一緒に、この問いについて考えていけたら幸いである。

――私たちはなぜ物語を作り、そして受け取るのか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?