南アジア史・東南アジア史の論点①

☆南アジア史(紀元前〜16世紀)☆

Q.アーリヤ人が前10世紀に経験した民族的移動と、それに伴う社会構造の変化

A.牧畜民であったアーリヤ人は、前10世紀にインダス川流域のパンジャーブ地方からガンジス川流域へと移動し、農耕社会を発達させた。この過程で階層分化が進展し、ヴァルナ制が確立した。

Q.アショーカ王の政策とその結果

A.残虐な征服活動への反省から、仏教に帰依してダルマに基づく政治を展開。仏典結集やスリランカでの布教(石柱碑の建造)を通して仏教の保護者となった。官僚制や常備軍の強化を行ったが、その維持費が膨大となりマウリヤ朝の財政は破綻、衰退した。

Q.クシャーナ朝の興隆と衰退

A.2世紀、カニシカ王のもとで大乗仏教が保護され、ガンダーラ美術が発達した。ローマ帝国との交易で栄えるも、3世紀に入るとローマが衰退(軍人皇帝時代、ウァレリアヌスがササン朝の捕虜に)したことで交易も縮小し、かわりに台頭したササン朝のシャープール1世による侵略を受けた。

Q.インドにおける仏教の衰退過程

A.そもそも仏教はバラモン層の寡頭に不満を抱いた貴族層や商人層により信仰・支援された宗教であったが、8世紀のラージプート時代の抗争で都市と商業が衰退し、商人層が没落すると仏教はその経済的基盤を失った。また、バクティ運動によりヒンドゥー教が浸透し、カースト制度が発達したことも仏教衰退の一因となった。12世紀にはイスラームのゴール朝が進出して廃仏を実施、インド仏教は消滅した。

Q.インドのイスラーム化の過程

A.インドのイスラーム化は、海・陸を両方を経由して進展した。

海経由……ラージプート時代(7世紀〜8世紀頃)にインド洋交易が発達すると、ムスリム商人がインドに来訪して居留するようになった。これにより、現地住民にイスラームがひろまった。

陸経由……10世紀にアフガニスタンで建国されたガズナ朝、12世紀に建国されたゴール朝は西北インドのイスラーム化に寄与した。13世紀にはゴール朝から自立したマムルークのアイバクが奴隷王朝をデリーで建国、以後デリーを都とするイスラーム系のデリー=スルタン朝が交替した。

Q.ムガル帝国の第3代皇帝・アクバルの政治

A.ヒンドゥー系のラージプート諸国を平定、州県を設置し中央集権体制を確立した。貴族と官僚をマンサブダーリー制のもと組織し、位階に応じて給与地と保持すべき騎馬・騎兵数を定めた。非ムスリムへの懐柔策として、人頭税のジズヤを廃止した。

Q.16世紀・17世紀における、ヨーロッパ諸国のインド進出

16世紀……ポルトガルは西海岸のゴアを獲得、アジア貿易の拠点とした。

17世紀……オランダ・イギリス・フランスはそれぞれ東インド会社を設立、ムガル帝国の許可を得て商館を設置した。(後にインド支配の拠点となる)

イギリス……マドラス・ボンベイ・カルカッタ
フランス……シャンデルナゴル・ポンディシェリ

☆東南アジア史(イスラーム化前)☆

Q.東南アジアのインド化の背景

A.4世紀から6世紀頃、グプタ朝の興隆やモンスーン航海術の確立に伴い東西貿易が拡大すると、インドから東南アジア諸国へとバラモンが来訪するようになった。これらの港市国家は、彼らを通して仏教やヒンドゥー教などインド文化を受容した。チャム人の林邑も、中国文化の摂取からインド化へと方針を転換し、チャンパーを自称した。

Q.7世紀に東南アジア交易の中心が扶南からシュリーヴィジャヤへと移り変わった背景

A.交易に際して、マレー半島横断ルートに替わりマラッカ海峡経由ルートが盛んとなった(荷物の積みかえが必要ないため)。これにより交易ルートから外れた扶南は衰退してクメール王国に侵略され、マラッカ海峡を支配するシュリーヴィジャヤが交易帝国として台頭した。

Q.中国王朝による北部ベトナムの支配と、その終結

A.秦の始皇帝は北部ベトナムに南海郡など3郡を設置し、郡県制を施行した。秦滅亡後には南越が独立するも、前漢の武帝はこれを滅ぼして日南郡など3郡を設置、南海交易の窓口とした。後漢の時代には徴姉妹の反乱などベトナム人の抵抗が見られるも失敗し、唐代には安南都護府のもとで羈縻政策による統治が行われた。唐滅亡後の11世紀、ようやく大越(李朝)が建国され、中国王朝によるベトナム支配は一応終結した。

Q.大越国の諸王朝について

A.北部ベトナムでは、東南アジアの中では珍しく中国的な王朝が変遷した。11世紀、唐の滅亡後自立した李朝は、科挙を導入するなど中国文化を受容した。13世紀に台頭した陳朝は、元のフビライ=ハンによる遠征を受けるもこれを撃退し、民族意識を強めた。このことは、中国の漢字をもとにしたベトナム独自のチューノムの作成を促した。15世紀に明から自立した黎朝は、独立後も依然明への朝貢を継続し、仏教や科挙など中国文化・制度を導入した。

☆確認☆
エーヤワディー川流域……ビルマ
チャオプラヤー川流域……タイ
メコン川流域……カンボジア

☆ビルマの諸国家
ピュー(8世紀〜9世紀)
綿と銀貨を扶南に輸出して栄える
南詔に圧迫され滅亡

パガン朝(11世紀〜13世紀)
上座部仏教栄える
元の遠征により衰退

タウングー朝(16世紀〜17世紀)

コンバウン朝(18世紀〜19世紀)
タイのアユタヤ朝を滅ぼす
イギリス=ビルマ戦争に敗れ、インド帝国へと組み込まれる

☆タイの諸国家
ドヴァーラヴァティー(7世紀〜10世紀)
ピューと扶南の交易を中継して栄える
仏教が盛ん

スコータイ朝(13世紀〜15世紀)
タイ人初統一王朝
上座部仏教

アユタヤ朝(14世紀〜18世紀)
クメール王国を圧迫、スコータイ朝征服
上座部仏教
ビルマのコンバウン朝に滅ぼされる

ラタナコーシン朝(18世紀〜現在)
ラーマ5世による近代化

☆カンボジアの諸国家
扶南(1世紀〜7世紀)
ローマやインドとの海上交易で栄える
外港オケオを中心に発展

クメール王国(9世紀〜15世紀)
12世紀のアンコール朝のもとで全盛期
仏教・ヒンドゥー教を受容
アユタヤ朝に圧迫され滅亡



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