私というレガシー

私は先日、誕生日を迎えた。祝ってくれる仲間がいて本当に嬉しかった。年を取るにつれ、そういった新鮮さは失われるものと思っていたが案外変わらず嬉しいものだ。年を取ってもみんなを祝い続けてやろうと思う。

そんな話はさておき、最近、大人になるにつれて

「私は私としてどう在るべきか」


と考えることが多くなった。私は今まで好きなことに目を向け淡々とやり続けてきた。最近は読書やランニングのほかにもいろいろな分野に興味を持ち始めて勉強し始めている。

こうした時、好きな事にしか目を向けてこなかった分、如何にもこうにも視野というのが狭くなってしまう。好きなことに熱中できた高校生活に後悔はない、何なら今もそれは夢中でできる趣味になっている。しかし、それだけではちょっと物足りなさを感じてくるのがひとの性というものだ。

今は最近になって数学の面白さをわかってきたし、人と接する面白さもわかってきた。学びたい知りたいなどという知的探究心の本質は面白さなのかも知れない。学べば学んでいくほど日常に沢山のユーモアをきたすことが出来るのだ。この日常に溢れるユーモアを沢山増やし見つけていければ人生はもっと面白くなるだろう。

話が脱線してしまった。本題の私がわたしとしてどうあるべきかという問いだが

結論、考えている間だけがわたしなのだろう

と考えている。

考えを放棄した時点でそれはもうわたしでは無い。

これはみんなにも覚えていて欲しい。君が君であり私が私であるために考え続けるのだ。考えるというのは究極を言えば愛である。誰かを守りたいと考えるのも自分を大切にしたいと考えるのも全部愛が先に来る。

だからもう少し愛を大事にして生きたいと思う。







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