【1分で読める小説】シロクマ文芸部「変わる時」『引き返せない気持ち』
変わる時は一瞬だ。気が付いたら変わっていて、いつからそうだったのか、元からそうだったのではないかと思いを巡らせ無駄に終わる。
駅のロータリーに出ると、併設されたパン屋から香ばしい匂いがした。とたんぐぅと小さくお腹が鳴る。
一本早い電車で来たし、買っちゃおうかな。
いや、と思い直し、直樹は先にスマートフォンのマップアプリで涼花に教えられた住所を確認した。
D大学前駅南ハイツ。
左手のロータリーの切れ目の先に横断歩道があって、その奥にグレーの六階建てアパートを認めた。彼女が言っていたように目と鼻の先だった。
の、五〇二号室。
なんとはなしに五階を見たのが良くなかったかもしれない。急に現実が形を帯びて目の前に現れた感覚とでも言おうか、「あそこが涼花の家」ということを意識してしまった。直樹はスマートフォンを黒いダウンのポケットに突っ込んで、固まった。最近切った髪のせいで、乾燥した風が吹き抜けると耳元がスースーするけれど、ダウンの中はじんわり温かい。主に脇が。
涼花の家に、初めて、来た。
ポツ、ポツ、と雨粒がロータリーの屋根を打ち始めたかと思うと、次第に雨脚がひどくなってきた。幾人か小走りに屋根の下に滑り込んでくる。
直樹はハッとしてパン屋を横切り、歩き始めた。のろり、のろりと足を動かしていると、頭上の雨音に紛れて希望的とも言える要らぬ懸念がぱらぱらと落ちてくる。
この雨が降り続いて雪に変わったら。雪の影響で電車が止まったら。
昨日の会話が思い出される。
レポート一緒にしようぜ。
外寒いから私の家でどう? こたつもあるし課題が早く終わったらゲームもできるよ。
いいね、決定。
涼花は同じゼミで趣味も合うし馬も合う。よく一緒に講義も受けるしご飯も食べる。けれど家に行ったことはなかった。いつもと違うのは場所だけのはずだ。
意識的に無意識になろうとしたが、すぐにロータリーの端っこに辿り着いてしまった。
いや、涼花はただの友達やし。
信号機が青になったのと同時に、何かを振り切るような小走りで、雨で色が濃くなった横断歩道を渡った。
オートロックはなかったのでそのままエレベーターで五階へ上がる。五〇二号室のドアの前で深呼吸を三つして、インターホンに指先が触れる直前、ガチャリと鍵を開ける音がした。かと思うと、そのままドアが開き、直樹は咄嗟に後ろへ避ける。
「っぶねぇ」
「びっくりした。もう着いたの。雨降ってきたから迎えに行こうと思ったのに」
涼花の手には一本の傘が握られていた。それを見て心臓が大きく一つ跳ねる。
「んな徒歩三十秒の距離でいるかよ」
直樹は努めておどけた態度で玄関を上がった。
了
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