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運転士の生き様

第1章 新天地

あらすじ
 57歳の中村 勇は、長年の一般路線バス運転士としての経験に限界を感じていた。
なぜなら、2024年の人手不足問題や労働時間の制約に直面し、従来の仕事に価値を見出せなくなっていたのだ。

『俺はこれからどこへ向かうんだろう…?』

そこで、かつて経験した、リムジンバス運転士の仕事が頭をよぎる。そして、彼は、再度新たな挑戦を求めてリムジンバスの営業所へ転勤することに活路を見出す。それから、羽田空港を舞台に、新しい環境、新しい業務に奮闘しながら、新たな路線を習得し、もがきながらも未知なる新天地へ挑戦する姿をリアルに描く。

第1話: 転勤の決意

 中村 勇(57歳)は、長年にわたり一般路線バスの運転士として街の通勤客を乗せ、隅々を走り続けてきた。かつては、地域の住民と直接触れ合うこの仕事に誇りを持っていたが、2024年に至り、その情熱は徐々に色あせていった。新型コロナウイルス感染症の影響で減便・欠便が相次ぎ、会社の収益も厳しくなりつつあった。さらに、2024年問題と呼ばれる労働時間の制約により、増務時間も月60時間を超えられなくなり、残業代が減った。

 勇は、これまで通勤客を乗せて走ることにこだわり続けてきたが、その仕事に対する価値観が揺らぎ始めていた。日々の運行が単調に感じられ、そこにやりがいを見出すことが難しくなっていたのだ。

そんな中、関東一円を結ぶリムジンバスの仕事に、やりがいを感じていたかつての自分を思い出していた。
空港と都市を結ぶこの仕事には、新たな挑戦と広がりを感じることができた。こうして勇は、リムジンバスの運転士に再び転身する決意を固め、新しい営業所への転勤の希望を上司である田村所長に伝えた。

第2話: 新しい営業所での初日

 しかし、すぐに希望通りの転勤などあるはずもなく、勇は、しばらく、もんもんとした日々を過ごしていた。

そんな時、勇に転機が訪れた。

『羽田空港のリムジンバスの人員が足りないから、助勤に行ってくれないか?』
と田村所長から、新しい営業所への助勤を頼まれたのだ。助勤というのは、籍を今の営業所におきながら、別の営業所の応援に、人手不足が解消されるまで勤務することだ。

『これは、転勤のチャンスかもしれない』
 勇は、バスの運転手の人手不足をありがたいと思ったのは、初めてだった。転勤になるのは、助勤に行って、辞令が出ることで決まる。

『はい。もちろん、行かせてください。』

勇は、早朝に目覚め、これまでの生活リズムとは違う電車通勤の道を歩んでいた。新しい営業所へと向かう電車の中で、彼の胸には期待と不安が交錯していた。営業所に到着すると、活気溢れる雰囲気に少し圧倒されながらも、前向きな気持ちで一歩を踏み出した。

営業所の玄関をくぐると、事務方や運行係りに挨拶を交わし、ロッカーの場所を教えてもらった。制服に身を包み、新たな仲間たちと出会うことに少し緊張しながらも、これから始まる新しい業務に胸を躍らせた。そんな中、彼の前に現れたのは、指導員の田中さんだった。田中さんは厳しいが、公平で頼りになる存在であり、勇にとっては新しい環境での大きな支えとなる人物だった。

「これが今日の路線の資料です。まずは点呼を受けて、車両の点検に入りましょう。」

田中さんの冷静な声が、勇の心を少しだけ落ち着かせた。営業所内の忙しさに戸惑いながらも、彼は新しい挑戦に向けて前進し始めるのだった。

第3話: 研修と新たな挑戦

 新しい営業所での業務が始まると、勇はリムジンバスの運転技能や接客スキルを学ぶ研修に取り組むこととなった。
リムジンバスの運転技能は、一般路線バスの運転技能とは異なる。
何が異なるかというと、走る道路と距離とスピードが違う。
 一般路線では、最寄りの駅までの路線で、距離的には片道50キロ程度。
ご高齢の立ち客が多いので、車内外の安全にも気を配らなければならない。
 一方、リムジンバスでは、高速道路を使って、距離も片道100キロは超える。空港からの旅行客や空港への通勤客がほとんどだ。早朝から深夜までの激務であるが、バスの運転士の花形であり、運転士の間でも憧れられる仕事である。

田中さんから手渡された手作りの各路線図の資料に目を通しながら、彼は新たな業務に対する意欲をさらに高めた。B交番表の10路線を、約1週間で習熟(習得)する予定と聞かされ、短期間で路線を覚えることにプレッシャーを感じつつも、早く独車(独り立ち)できることを目指して、関東一円に広がる新しい路線を覚えられる喜びに胸がふるえた。

研修は厳しく、人手不足の影響もあり、業務は一層過酷さを増していた。しかし、勇はその厳しさに負けることなく、田中さんをはじめ、先輩たちの存在に助けられながら、成長していった。

勇の一般路線バスの経験は、求められる技能は異なるが、リムジンバスの運転技能にも活かされた。

第4話: 初めての本番

 ついにその日がやってきた。リムジンバス運転に4〜5年のブランクが有る勇だが、1週間の習熟を終え、リムジンバス運行の本番に挑む日である。勇は、車庫からの早朝出庫があるため、前日の深夜に会社に出勤し、社内にある簡易寝床で一夜を過ごした。静かな夜の営業所で眠りにつく彼の胸には、期待と不安が入り混じっていた。

明朝、運行カウンターの前に立ち、アルコール検知器にダイヤ番号を入力してストローで息を吹きかけた。測定結果を運行係りに確認してもらい、点呼を受けた後、今日の行き先と安全に対する確認を行った。その後、スターフ(運行表)を手渡され、前日に決められた車両を担当するナンバーでの車両点検に向かう。

勇はリムジンバスの運転席に乗り込み、ダイヤ番号が綴られたプレートを出して、後部座席の中心の上方にあるプレート入れに差し込んだ。デジタルタコグラフ(運行記録計)にメモリーカードを差し込むと、女性の声が「中村さんの記録を開始します。今日も安全運転でお願いします」と知らせてくれた。その瞬間、勇はふと、AIの未来がすぐそこまで来ていることを感じた。

運転席に座り、左右のミラーを電動で合わせて、アンダーミラーも調整して、ETCカードを差し込み、スターフの行き先と経路を再確認した後、音声案内合成装置・設定機に音声コードを入力し、リムジンバスの外側にある電光表示と車内案内の連動設定を完了した。
全てが整ったことを確認すると、勇は深呼吸をして指差し呼称

『右よし!ルームミラーで車内よし!左よし!』

安全確認を行い、車庫からバスをゆっくりと発車させた。

その瞬間、彼の新しい挑戦が本格的に始まった。

第5話 新しい挑戦

 勇は、ハンドルをしっかりと握りしめながら、リムジンバスの滑らかな動きに心地よい緊張感を覚えた。一般路線バスとは異なるこの車両の静かなエンジン音が、彼の耳に優しく響く。まるでタイムスリップしたかのような不思議な感覚に包まれながら、彼は前方に広がる景色に目を向けた。

車庫を出てすぐ、夜明け前の薄暗い街並みが彼の視界に飛び込んできた。フロントガラスの窓越しに見える街灯の光が、ゆっくりと走り出したバスの車体を柔らかく照らしている。外の世界はまだ眠りの中にあり、その静けさが勇の心を落ち着かせる。彼は深呼吸をしながら、視界の隅に映る夜明けを楽しむ余裕すら感じていた。

「リムジンバスか…久しぶりだなぁ〜この感覚」彼は心の中でつぶやいた。

リムジンバスの仕事には、一般路線バスでは味わえない特別な魅力があった。例えば、これから乗せるのは、空港からホテルへ向かうビジネスマンや、海外から訪れる観光客たち。彼らは、皆、それぞれの目的地に向かう途中であり、その旅の一部を自分が担っているという使命感が、勇に新たなやりがいを与えていた。走り去って流れてゆく街並み・景観が、彼の緊張を和らげ、運転士の心構えを思い出させてくれる。

「お客様を、最上の快適さで目的地までお届けする」—その使命感が、彼の胸に広がる。

リムジンバスの運転席は、一般の路線バスよりも広く、そして快適だ。運転席のシートは、しっかりとしたホールド感があり、彼の体を包み込むようにして座り心地が良い。ハンドルを握る手には、少し冷たい感触が伝わり、お客様の安全を守らなければならないという危機意識が、勇に自分は運転士であることを強く意識させる。

第6話 運転士としての未来

 道路に出ると、車窓からの眺めが一層広がった。朝焼けが、徐々に空を染め、遠くには東京湾が輝きを増している。彼は、その美しい光景に固唾を飲んだ。「これから毎日、この景色を眺めながら走れるのか…」と、思わず笑みがこぼれた。一般路線バスでは見られなかった、この広がりのある景色が、彼の心を満たしていく。

出庫してしばらく走ると、首都高入口のETCゲートが近づいてきた。勇は、ゲートを通過する瞬間、ふと未来の自動運転技術について思いを馳せた。「もしかしたら、数年後には自分の仕事もAIや自動運転に取って代わられるかもしれない…」。だが、同時に、「それでも、今ここで自分が運転していることに意味がある」と勇は思いたかった。どんなにAIや自動運転が発展したとしても、AIに取って代わられない人間の普遍的な価値とは何か?という問いに、まだ明確に答えは出せていないが、AIとの共存が鍵になると勇は思った。

バスは、東京の高速道路に入る。一般路線バスの狭い道とは異なり、リムジンバスが走る高速道路は広々としており、運転のリズムも変わる。アクセルを踏むたびに、滑らかに加速するバスの動きが、勇の手と足に心地よい振動として伝わってきた。その感覚は、まるで新しい世界へと誘われるかのような期待感を抱かせた。

車内の静寂が、運転中の集中力を高める。窓の外を流れる景色と、目の前の広い道路。彼の視覚は、周囲の変化を逃すまいと敏感になり、聴覚はエンジン音や道路の微かなざわめきを拾い上げる。触覚では、ハンドルから伝わる路面の感触を楽しみ、そして、どこかに感じる未来への展望が彼を前へと駆り立てた。

「この仕事を通じて、もっと多くの人々に安全で快適な移動の手段として利用してもらいたい」。勇は、これからも新しい挑戦を続ける決意を固めながら、朝の光の中、次なる目的地へとリムジンバスを走らせた。彼の心には、今後の仕事に対する希望と、未知なる新天地への期待が膨らんでいた。

第7話 困惑
1ヶ月たったある日、羽田空港の駐車場での休憩中、勇のスマホが鳴った。前の営業所の田村所長からの電話だった。まだ前の営業所に籍があることをすっかり忘れていた勇は動揺した。

『中村君、すまないが、こっちも人が足りなくてね。戻ってこないか?』田村所長の懇願するような声が、勇の耳に響いた。
『え…?』勇の心は大きく揺さぶられた。            →次回へ続く

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