加藤諦三氏からの学びまとめ
同氏は非常にたくさんの著書を出版している。そのうちの何冊かを読んだ。ここでは、得た学びを抜粋する。
失敗した姿を他人にさらしたくない。ばれたくない。だから、失敗しないよう、そもそも挑戦を避けてしまう。弱い人とは、欠点がある事自体ではなく、その自分の欠点を認められない点において弱い。
認められさえすれば、それが他人にばれようとも気にしない。他人の目も平気になる。必要以上に批判から身を守らずとも、楽に生きていけるのだろう。
一番身近で重要な存在である親からの期待が、「あるべき自分」を形作ってしまう。それは「ありのままの自分」を覆い隠す。恐ろしいのは、その事実にすら気づけなくなることだ。自分の思考の大元を掘り下げるべき理由が、ここにある。もし他人にあやつられてるなら、その呪縛を解くことで苦しみが減るだろう。
もちろん、あなた自身が親として子供にふるまうべき態度も、この考えから学べるだろう。支配せず、子供が自己を発見し育てることを支援するのだ。
自分の弱点を認め、隠さずに開放することで、自分の価値を信じられる。逆説的なように思えるかもしれない。普通は、強みがあるから自分を信じられるのだと。
しかし、実際は異なる。弱い自分を隠すと、自己肯定感は高まらない。弱い自分を認めるからこそ、自分らしく振舞えるのだ。自分の弱点を具体的に明らかにして、向かい合うことだ。最初は苦しいかもしれないが、長期的にはこの方が幸福になれる。
この真実に気付けると、ずいぶんと楽になるだろう。批判する人は、その人の心の反応の結果、発言をしている。発言の内容は、その批判する人の価値観に過ぎないのだ。当たり前だが、批判する人はあなたと全くの別人であり、それぞれ個別の価値観に沿って生きている。相手の心の動きなどわかりはしないのだから、批判されたからといって、そんなに気に病むことはないのだ。ただ自分の人生の肥やしにすればよい。
これが、不健全な完璧主義を生む。内的な動機ではなく、他人からの評価を求めることの害悪は、頭ではわかっている人は多いだろう。人に言われたことを、気にしすぎてしまう。自分の生存とはもはや関係ないのにも関わらず。太古の昔から、生存のためにはコミュニティ内での評価が重要だった。ただ、現代は事情が異なることを忘れてはいけない。
小説で流行ジャンルの異世界転生が、これに当てはまると思う。自分がパーティから追い出されるが、自分は実はものすごい能力があり「ザマア」という展開。非常に病的なものを感じる。
これに対抗するには、自分の劣等感の原点を直視し、それを受け入れ、他人にも見えるようにすることだ。それは、受験の失敗かもしれない。就活の失敗かもしれない。過去に他人から拒絶されたこともあろうだろう。
ただ、それが一体何だというのか。失敗は成功の過程にすぎない。失敗がなければ成功は無い。本能に抗い、自分の弱みを受け入れることこそが幸福につながることを理解し実践しよう。
すべからく有用な結果だけを求めてしまっている。そうではなく、取り組むプロセス自体から、前向きな喜びを得る状態が好ましい。それは何か不安のようなものを解消する喜びではない。解消はあくまで結果であって、プロセスそのものがフロー状態をもたらす。それが理想なのだ。仕事でも、家事や育児でも。
人生の土台、人間としての尊厳は、他人からの評価とは関係がない。本来、それらは生きているだけで満たされている。これを心の底で理解するには、生まれてから一度は無償の愛で満たされる経験が必要なのではないだろうか。
大抵の場合、それは親の愛である。親からの愛が条件付きであると、悲劇が起こる。例えば良い子にしていなければ愛されない場合、外部評価が子供の生存にとって致命的なものになってしまう。そんな子供がどんな悲惨な大人になってしまうか、想像はつくだろう。
劣等感の裏返しが、優越性コンプレックスだ。他人と比較することで、常にこの現象は生まれてくる。昨日の自分とだけ比較するなら、まだマシだろう。ただ、他人だろうが自分だろうが、比較して優劣を決めること自身から離れられれば、なお良い。
他人からの称賛とは無関係の、「好き」という内発的な感情。これこそが救いとなる。取り組んでいる最中が楽しい。結果は気にならない。自分の劣等感を認め、そしてそれを脇において、その上で自分の好きという感情を純粋に大事にしていきたい。
小さな頃から、親や先生、友人からの評価が生存の上で重要だったなら、こうは簡単にいかない。「好き」という感情すら、忘れ去ってしまうだろう。思い出すには、相応の環境で訓練することが必要かもしれない。そう考えると、子供を育てる責任は非常に重い。結果を褒めない。過程を楽しむ時間を一緒に過ごすのだ。
自分が貢献する相手でなく、自分自身にしか興味がない。それが自己中心的ということだ。自己への執着を捨てさる必要がある。それは、自分の評価や取り分を気にしないことから生まれる。損得ばかり考えないことだ。どうせ自分は死ぬ。なら、なぜ自分の損得に固執しなければならないのか。
人によって異なるだろうが、内在化してしまった他者がいたのだ。受験で成功を望む親かもしれないし、仕事で成果を求める先輩や上司かもしれない。普段は気づかないかもしれないが、潜在意識下での動機を見つめることで、自分の中に他者が存在していることに驚くだろう。
もしくはその逆で、自分のことを蔑視してきた人が周りにいたのかもしれない。そして、「見返してやる」ことが自分にとって絶対の目標になってしまった可能性もある。このような背景でも、他者由来の動機が自分の中にこびりついてしまう。
親から恩着せがましくされた子供は、損得なく自分を与えることが出来なくなる。平たく言えば、他人を愛せない人間になってしまうのだ。問題はそれだけではない。損得ありきの交流をしている人間は、ありのままの自分が分からなくなる。自身が何が好きで、何が嫌いかも分からない。そうすると・・・
この通り、他人に優越しないと、どうにも生きられない人生になってしまう。恩着せがましい親は、子供に劣等感を与え、悲劇の大人をつくりだしていく。このことに気づける親は、そう多くはない。
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