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赤ちゃん、きてもいいかもしれない

麻衣も昨日のエッセイで、「創作することと、新しい命がやってくることはつながっていると感じる」と書いていたけれど、僕も同じ気持ちだ。

2016年の春に麻衣に出会ってから、僕ら二人は、とにかく純粋な創作をしてみたい一心に、自分たちの集中できる環境を用意して、創作に取り組んできた。

音楽はたくさん作った。小説も書いた。
作品として、形にならないものもたくさんある。
ほとんど毎日、料理をして、自分たちの食卓を作った。
家の小さな花壇にゴーヤを植えて、育て、収穫して食べた。
ソファーの上で、散歩をしながら、カフェの机で、時間を忘れていくらでもおしゃべりをした。

僕らは純粋に創作することと、生活を美しくすることは、同じことであると直感していた。僕は、麻衣とともに暮らし始めた時から、料理をするようになった。ちょっとした工夫で、生活が美しくなることを麻衣から学んだ。(例えば、花を摘んで、生けること。好きな香りを部屋に漂わせること。それは取るに足らないことに思われるかもしれないが、その威力は計り知れない)

彼女は、息をするように、世界を美しくしていく。麻衣は、僕が、泉から水を汲んでくるように音楽を奏でているというけれど、僕は、麻衣は泉そのものだと思う。

泉の背後には、巨大な山が控えている。山は、降り注ぐ雨を吸い込み、その体で、美しい水を作り出してしまう。意図せず、存在するだけで。

僕は、その水を汲みに行く。

そんな風にして、僕らは、純粋な創作というものが、一体どんなものかわからない中でも、ありったけの知恵と行動をかき集めて、ひとつひとつ取り組んでみた。

そうした取り組みのひとつのピークとして、2018年の5月8日が、きた。
その時のことは、麻衣のエッセイにも詳しく書かれている。
僕らは、百合の花が、その香りを存分にスタジオに漂わせる中、一気に別世界に、誘われた。

麻衣の中で、そして僕の中で、何かが分水嶺を超えた。その日から僕たちの泉は、たちどころに溢れ、一面、海となった。

麻衣と僕は、10日間で48曲に及ぶ曲を生み出した。その後も、創造の海は枯れることなく、むしろ、さらに未知なる海がいくらでも広がっていると、僕らは気がついた。

僕は、時折思い出すことがある。夜、空に星が見えない時も、あたりに光が多すぎるだけで、星はいつも数え切れないほどに瞬き、この瞬間にも、流れ星は、ひゅんひゅん飛んでいることを。

「創作することは、流れ星に乗るようなものだよ」
と、言ったのは麻衣だ。確かにと、僕は思う。

話が飛びに飛んでしまったが、2018年の5月8日以降、僕らは、純粋な創作が一体どういうものであるのか、全身で感じた。創作をすることは何にも代えがたい喜びであり、この個体として生きている間は、この純粋な創作に取り組み続けたい。

そうした、流れの中で、ある時、麻衣が僕にこう言った。
「赤ちゃん、きてもいいかもしれない」
僕は、その時、目を見開いた気がする。そして、そのまま開いた目は、新たな世界を見出した。
自分が、子を授かる、ないしは、子がやってくる可能性のある世界に生きる。
それは不思議な実感であった。それまで、子がくるということ自分事として捉えていなかったことに愕然とした。

その不思議は、今も続いている。自分が子を迎えるということをOK!とした瞬間から、僕と麻衣の中から、以前にも増して、生命力が湧き出るのを、感じている。

その力を、そして発現の仕方を母性や父性と呼んでみたりするのだろうが、根源はひとつのことだと、僕は感じている。その力は、何億年も昔に、魚を陸に上げたものであるだろうし、さらに昔、無生物から生物が現れた不可思議の正体であろうし、私たちがここに今、生きているという事実を作り上げた、名をつけがたい営みそのものを支える力であろう。

純粋に創作をしてみたい、という気持ちに素直に、取り組んでいたら、僕らは、新しい命を迎えることにもなった。

この地球上では、今日も新しい命が、芽吹き、花開いていくことを、僕は、祝福したい。それは、自分の元に、新しい命がやってくることをOK!とした時に、僕が感じた祝福でもあると思うからだ。

たくさんの誰かが、新しい命を祝福してきたのだと思う。
「赤ちゃんがきた!」と、僕らが叫んだ時、春風に混じって、僕らを静かに祝福した声を、僕は、忘れない。

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